渡辺崋山と糟谷磯丸~異才の田原藩家老と漁夫歌人~【ふるさと先人展5】愛知県田原市

渡辺崋山と糟谷磯丸【嚶鳴広場ふるさと先人展5】を開催しました。

内容】
  嚶鳴協議会加盟自治体の愛知県田原市の先人 田原藩家老にして、画家・洋学者の渡辺崋山と漁夫歌人である糟谷磯丸の展示。

開催期間

平成29年2月16日(木)~平成29年3月24日(金)

開催場所

東海市芸術劇場 嚶鳴広場
平洲記念館

渡辺崋山とは

 

渡辺崋山は、寛政5(1793)年9月16日、江戸麹町〈こうじまち〉の田原藩上屋敷〈たはらはん・かみやしき〉に生まれました。田原藩主三宅家は1万2000石の小藩で、渡辺家も窮迫していました。崋山は、病身の父、老祖母、8人の子供を抱える気丈な母を助け、幼時から苦労を重ねて勉学習画にはげみました。8歳より若君お相手として出仕。13歳の頃、藩の儒者鷹見星皐〈たかみ・せいこう〉につき、後に佐藤一斎、松崎慊堂〈まつざき・こうどう〉に学んで朱子、陽明の学をきわめ、さらに蘭学による西洋事情の研究に進みました。漢詩、和歌、俳諧、書をよくし、師友もたくさんいます。とくに、天性の画技は、金子金陵〈かねこ・きんりょう〉、谷文晁〈たに・ぶんちょう〉に師事して大いに進み、南画に独特の描線と洋画の立体感を取り入れ多彩な名品を残しました。門弟には、椿椿山、福田半香、山本琹谷、平井顕斎、井上竹逸、永村茜山らがいます。

天保3(1832)年、江戸家老職を命ぜられました。当時、日本近海をうかがう外国船が多く、領内沿岸の要所に遠見番所を設け、砲台を築き、沿岸の村々へ外国の旗印を配って異国船の監視に当たらせ、海岸防備に心を用いました。内政面では、田原領内へ課せられた助郷の免除運動、新田開発による沿岸民の不安解消などに尽力。天保の飢饉の際には官民一体で義倉「報民倉」を築き、凶作を乗り切りました。この時、崋山は病中で田原へ赴くことができないため用人真木重郎兵衛に策を授け、鈴木春山、大蔵永常らが活躍し、上下一体となって1人の餓死流浪者もだしませんでした。

崋山は、鎖国日本が世界の水準よりはるかに遅れていることを最も憂えた1人です。人々が外国への認識を高めるために蘭学研究の結社を作り、田原藩老公三宅友信に蘭書を数多く集めさせ、高野長英、小関三英、鈴木春山らにこれを訳読させました。また西洋砲術家江川坦庵、通訳幡崎鼎、羽倉簡堂、下曽根金三郎、遠藤白鶴らとも交流し、オランダの甲比丹の語るところを聞き、国政の方向を誤らぬように心を注ぎました。その著『鴃舌小記(げきぜつしょうき)』『鴃舌或問(げきぜつわくもん)』『西洋事情御答書』『慎機論』には、驚くべき博識と攘夷の非を唱える憂国の情が書きつづられています。

しかし、蘭学の進出は、儒学派が勢力を占める幕府為政者にとって大きな障害であり、天保10(1839)年、幕府目付の鳥居耀蔵により、長英らとともに逮捕されました。崋山は、『西洋事情書』や『慎機論』が幕府非難であるという罪を受け重罪になるところ、恩師松崎慊堂の献身的な請願書により12月に在所蟄居となり、翌1月20日田原に到着し家族と共に池ノ原邸に幽閉の日を送る身となりました。しかし、画弟子福田半香らが、崋山の絵を売りその収入によって恩師の生計を救おうとした事から、藩内外の世評が喧しくなり、藩主にまで災いの及ぶことを畏れた崋山は、天保12年10月11日、49歳のとき、自らを不忠不孝と言って池ノ原屋敷に自刃しました。

詳しくはこちらへ
 http://www.taharamuseum.gr.jp/kazan/

糟谷磯丸とは

 

糟谷磯丸は、江戸時代、明和元年(1764)5月3日に現在の伊良湖町で漁師の家の長男として生まれました。当時の伊良湖村は貧しく、そのうえ31歳で父を亡くし、母は長い間病気でした。親孝行の磯丸は、母の病気が治るように3年間近くの伊良湖神社に毎日お参りをし、そのかいあってやがて母の病気は良くなりました。磯丸が和歌に興味を持ったのは、ちょうどこの頃で、伊良湖神社にお参りする旅人たちが歌を口ずさむのを聞き、その短い言葉の中に不思議な魅力を感じたためでした。磯丸は、もともと漁師で文字を書くことができませんでしたが、努力し歌を作るようになりなりました。そして現在の亀山町に住んでいた大垣新田藩の役人、井本常(いもとつねかげ)に文字や和歌の教えを受け、「磯丸」という名前をもらいました。その後、吉田(現在の豊橋市)の女性の歌人、林織江(はやしおりえ)が伊良湖へ旅をしたときに磯丸が世話をしたのがきっかけとなり、織江の先生であった京都の芝山大納言持豊(しばやまだいなごんもちとよ)の弟子になり、「貞良」の名前をもらい、ますます歌がうまくなっていきました。

磯丸は旅が好きで、三河各地をはじめ、南信州、静岡、遠くは京都、伊勢、尾張、江戸なども旅をしています。また、田原の殿様に呼ばれ、田原城の月見で歌を詠んだこともありました。

磯丸は、一生のうちに数万首の歌を作ったといわれています。中でも「まじない歌」は、当時の人々の暮らし向きや磯丸の人がらがよく表れています。磯丸が詠んだまじない歌は、人々の願いや困りごとなどを誠心誠意、心を込めて歌にしたものです。磯丸に歌を詠んでもらい、その歌を石碑にしたり、掛軸にして床の間に掛けると、不思議とその願いがかなったのです。磯丸は、その行く先々で歌を詠んでほしいと頼まれ、断ることもなく、それぞれの願いを歌にしていきました。

老若男女、身分、貧富を越えて、多くの人々に愛された磯丸は、嘉永元年(1848)、生まれた日と同じ5月3日に85歳で伊良湖の地で亡くなりました。

磯丸を慕う人々は神様としてお祀りすることを願い出、それが許され「磯丸霊神(いそまるれいじん)」の名前をもらいました。神様となった磯丸のために伊良湖の人たちは、「磯丸霊神の祠」をつくりました。この祠は、現在、伊良湖神社境内に「糟谷磯丸旧里」の石碑とともにあります。

 

展示の様子


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↑渡辺崋山の絵画を展示しています。


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↑図書コーナーにも山水画などが展示しています。

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↑エレベーター横壁面には糟谷磯丸のまじない歌を展示しています。

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↑細井平洲で有名な両国橋の図稿もあります。

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↑平洲記念館にも展示があります。

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↑平洲記念館では、渡辺崋山の軸を中心に展示しています。

その他、様々な展示がありますので、ぜひ御覧ください。