元浜町の民話

横須賀村の御菜網船

尾張国横須賀村には、むかしから沿岸で海藻をとったり、漁をしたりして暮らしをたてている漁師がいました。彼らは、
「毎日、こうして安全に漁ができるのも、わしらが領主さまのおかげだに。」
と、木田城のお殿様、荒尾美作守のお菜用に、毎日、とれた魚の中から青ギズ五匹をさし上げていました。
その後、信長が清洲でこの地を治めるようになってからは、道が遠くなったために、魚のかわりにまとめて米を献上するようになりましたが、殿様のお菜役はそのまま引きついでいました。それで、知多の浦の漁場は、いっさい横須賀村の漁師たちのなわばりとする許しが出ていたのです。
徳川の世になってからも、尾張藩が江戸の将軍様のお菜役を受け持ち、横須賀村の漁師たちがその役をはたしていました。
「おらが腕の見せどころだに、はりきっていこうぜ。」
とばかり、使いなれた大網と長縄を東武の浦(今の東京湾)へまわし、家康の食膳に新鮮な魚を献上するお菜役をりっぱにつとめたのです。そのため、横須賀の漁師たちは、特別な免許が与えられ、諸国より東武近海にはいりこむ漁船が、東武の役人から運上金をとられたのに対し、「を」のしるしをつけた尾張横須賀村の御菜網船は、改め御免で、東武から上総・下総・安房・伊豆・相模にいたるまでの広い漁場で自由に漁をする権利を与えられていました。全盛時代には、船の数が八十九艘もあったといいます。
ところが、数年わたって不漁が続き、横須賀村より出向いていた尾張の御菜網船の多くが、大網・長縄などを東武の漁師に売り渡したことがあります。それからは、東武の漁師がかわってお菜網役をつとめるようになりました。しかし、東武は品川浦の大森村に本拠を置く、横須賀村の大網元、坂太兵衛とその配下の漁師たちだけは、
「ここでつぶれては、尾張横須賀村の御菜網船の名がすたる。」
と、長らくこの港にとどまって、御菜網船の指導につとめたそうです。
横須賀港は、いまでは、すっかり漁港としてのおもかげを失ってしまいましたが、名古屋港の一角として、元浜町に横須賀埠頭が設けられており、工業港の役割を果たしています。