東海町の民話

加家新田

東海市の海岸は、いまでこそ名古屋南部臨海工業地帯となって工場が建ち並んでいますが、むかしは、知多の浦と呼ばれる波静かな遠浅の海でした。特に、いまの名鉄聚楽園駅のあたりから新日鉄前駅のあたりにかけては、海岸のすぐそばまで、一の掛、二の掛、三の掛といった崖が迫り、潮が引いたときには、人々は、海岸にできた道を通り、満潮時には、崖の上の道を通ったものだそうです。このあたり一帯を「加家」といったのも、この「崖」のくずれた状態、「かけ」からきているともいわれています。

台風一過、見事に晴れ上がった空の下で、この崖の上に立って潮の引いた干潟を見下ろして考えこんでいるのは、渡内村の庄屋、加藤宗右衛門さんです。昨夜の豪雨で足もとの崖がくずれ、赤茶けた地はだがむき出しになっています。どろ水のようににごった海水は、いまは沖の方にしりぞいてはいますが、海岸ぞいに建っている漁師たちの家は、波の浸入と後ろの崖のくずれで、一晩中おびえつづけたにちがいありません。
「新田ができれば、こんなに心配もなくなるのに・・・・・・。」
宗右衛門さんは、そうつぶやきながら、以前に、ここの住民の説得に来た日のことを思い出していました。
「海をうめられたんじゃ、おれたち漁師は、おまんまの食いあげじゃないか。」
「うまいこといって、新田はみんな自分のものにするつもりなんだろう。」
宗右衛門さんが熱心に話せば話すほど、人々は態度を固くしていきました。そして、あげくのはてには、こんなうたまでうたってはやしたて、追い返すのでした。
「新田を堅(かと)うつこうと思ってもそうええことはさせん四ヶ村」
しかし、宗右衛門さんはあきらめませんでした。新田が開発されれば、渡内村はもちろん、加家村、寺中村、大里村の人々にとっても、大変利益となるはずだからです。海のうめたてによって、波が直接家屋敷に打ち寄せるのを防ぐばかりか、村々の耕地面積も広くなり、野良仕事だって遠くまで出かけなくてもよくなります。考えてみれば、都合のよいことばかりです。なんとか実現させなくてはなりません。
宗右衛門さんは、ついに単独で、お上に
「恐れながら願い上げ奉り候事」と書き出した新田開発の許可願いを出しました。しかし、それは聞き入れられませんでした。
「海は少し遠くなるかもしれませんが、そのぶんだけ田畑がふえますよ。それにゆうべのような台風の晩でも、直接家に波がぶつかることもなくなるのです。」
宗右衛門さんは勇気を出して再び住民の説得にとりかかりました。その熱意が通じたか、文化年間(一八〇四~一八一八)に四か村の賛成を得て、改めて新田開発許可願いをその筋に提出しました。そして、ついに」念願の許可を得ることができたのです。
それからというものは、宗右衛門さんは、寝食を忘れて新田開発事業にうちこみました。そして、波に洗われて何度も堤防が決壊したのにもめげず、とうとう文政年間(一八一八~一八三〇)に開発事業を完成させました。この新田は、加家新田とも文政新田とも呼ばれ、毎年秋には豊かな実りを村々にもたらしてきましたが、近年、その先までうめたてが進み、いま見るような一大工業地帯と化しています。