養父町の民話

藪城と惣五郎塚

国道百五十五号線を横須賀町から養父町ヘ向かって南下すると「城之内」という交差点があります。そのあたり一体を養父町城之内というのは、かつて、そこに藪城があったからだといわれています。しかし、いまは人家が建ち並び、城跡をはっきりさせることはできません。
いまから五百年ほど前のことです。応仁元年(一四六七)に応仁の乱がはじまりました。そのあと、この動乱の舞台は京都から地方に移り、全国が乱れ、約百年の間、戦国時代とよばれる戦乱期をむかえることになりました。戦乱がつづいた戦国時代には、実力をもった下の者が、実力のない上の者をたおす下克上の風潮が、社会の潮流となりました。
そのころ、いまの東海市には、北から平島城、清水城、富田山中城、木田城、横須賀城、藪城などと呼ばれるいくつかの城がありました。藪城はそのうちの一つで、花井惣五郎という豪族が築いたものだと伝えられています。
尾張の国には守護として土岐頼康がおり、その下に、富田、花井と名のる二名の守護代が仕えていました。花井惣五郎はその守護代花井氏の血統をひく一族のものだったのです。家来が主君の上になる時代です。かつては守護代として守護土岐頼康に仕えていた花井一族も、いつの間にかその中の一人が実力をつけて、藪城を築き、勢力をほしいままにする地位にのし上がっていたのです。すぐとなりの知多市八幡には堀之内城(寺本城、花井城)があり、花井播磨守信忠、勘八の父子二代が住んでおり、花井一族がこの地方一体を支配していたものと思われます。
そのころ今川義元は知多半島方面へ進出しはじめました。これに対して織田信長勢は、今川方に通じているとみられた花井氏の堀之内城を攻めて火を放ちました。はなしはこのときのことです。織田勢が藪城へも押し寄せてきました。惣五郎以下よく敵を防いで戦いましたが、城内で裏切りがあって、惣五郎は弓矢をとらないままにあえなく討たれてしまいました。その最期に際して、
「弓矢さえ持っていたならば、このようにむざむざ討たれはしなかったものを」
とうらみの言葉を残したといいます。
こうして、藪城はまたたく間に落城してしまいました。このあと、織田信秀の五男、信治(信長の弟)が野夫城の城主となりました。信治は元亀元年(一五七〇)九月十九日、姉川の戦いで戦死しました。
惣五郎の遺骸を葬ったところを「惣五郎塚」または「弓捉塚」といいます。以前には、この花井惣五郎供養のための五輪塔が北堀畑の畑の中にありました。そのそばに植えられている松の木は伸びるままにしてあったので、よく茂っていました。また、小さな弓矢を塚に供えると病気が治ると信じられていました。いまは民家の裏庭に小さなお堂が作られ、その中にまつられています。