東海市の文化財

観福寺本堂内宮殿

観福寺本堂内宮殿(かんぷくじほんどうないくうでん):国指定/観福寺

観福寺は寺伝によれば大宝2年(702年)行基の建立といわれています。その沿革も宝徳2年(1450年)に前身の本堂を建立したことが、寺蔵の棟札によって知られているだけで、そのほかの詳しいことは不明です。現在の本堂は、寛文5年(1665年)に尾張2代藩主徳川光友の前後3年にわたる造営によって竣工したもので、本尊は十一面観音菩薩:県指定(じゅういちめんかんのんぼさつ)です。
本尊を安置する宮殿(くうでん)は入母屋造、妻入、こけらぶきの一間宮殿で、須弥壇下に井桁に組まれた土居盤上にすえられています。足元は須弥壇内にかくれており、棟積みも内陣天井のため失われています。宮殿の建築年代は背面板書の墨書により宝治2年(1248年)と知られていますが、当初は阿弥陀如来をまつる宮殿として造立されたようです。
各所に鎌倉時代の特徴をよくとどめており、年代の知られる基準作です。

観福寺本堂

観福寺本堂(かんぷくじほんどう):県指定

観福寺は寺伝によれば大宝2年(702年)行基の建立といわれています。その沿革も宝徳2年(1450年)に前身の本堂を建立したことが、寺蔵の棟札によって知られているだけで、そのほかの詳しいことは不明です。現在の本堂は、慶安年間(1648年~1652年)に再建され、また、寛文5年(1665年)に尾張2代藩主徳川光友の前後3年にわたる造営によって竣工されました。平成4年(1992年)とその翌年にかけて屋根のふき替えなど大規模な修理をしました。観福寺本堂は愛知県内にある近世の密教寺院本堂としては、古くに建てられたものであり、減柱造(げんちゅうつくり:柱を少なくして空間を広くする建築方法)という手法を取り入れています。本尊は十一面観音菩薩(県指定)です。

宝珠寺観音堂

宝珠寺観音堂(ほうしゅうじかんのんどう):市指定

平安時代に在原業平が創建したと伝えられています。平安時代末に融通念仏宗の開祖である聖応大師良忍上人が、その父である藤原道武の帰依によって正法山一心院を建立し、藤原家累代の墓所(正法塚/市指定)としたといい、藤原道武は業平塚(市指定)の脇に開基を在原業平とする寺院(宝珠寺)を復興し、業平等の菩提塔を建立したといわれています。
室町時代の天文2年(1533年)に長源寺の開祖である大中一介の法嗣(ほっす)二世静室興安禅師が宝珠寺を曹洞宗に改宗し、江戸時代になると元禄年間(1688年~1704年)以降、富田城跡で良忍上人の誕生地とされる現在の場所に、寺本城主播磨守花井勘右衛門信忠の末裔の花井勘右衛門が移建したと伝えられています。
宝珠寺観音堂は棟札によって正徳5年(1715年)に建てられたことがわかり、建物の様式的にも江戸時代中期のものと思われます。大工は平島村の杉江忠右衛門と記されています。観音堂の一部は改修されていますが、内も外も当初の姿をよくとどめており、伝統的な技法を守って建てられ、三間堂としても形が整っており、建築の質も高く、江戸時代中期の建築として高く評価されています。

十六羅漢図

十六羅漢図(じゅうろくらかんず):市指定/常蓮寺

羅漢は阿羅漢の略で、煩悩(ぼんのう)を断ちつくし、高い知識を得た聖者といわれています。十六羅漢図は阿弥陀経が説かれたときに集まった仏の弟子16人の羅漢を図像として表現したものです。一つに一人の羅漢が描かれ、十六羅漢、16幅がすべてそろい、それぞれが縦120cm、横55cmの大きさです。もとは大阪の南岳山舎利寺にあったものが、文久4年(1864年)に小野内甚之右衛門らの縁で、当寺に奉納されたと寺に伝えられています。なお、16幅がそれぞれどの羅漢かを特定することは現在の研究の成果をもっても難しいとされています。また、桃山から江戸時代初めころの作とも、または室町時代の作ともいわれていますが、いずれも確定することはできません。

涅槃図

涅槃図(ねはんず):市指定/常蓮寺

室町時代末から江戸時代初期にかけての作で絹地に描かれています。大きさはたて244.5cm、横206.4cmです。涅槃図はお釈迦(しゃか)さまの入滅(にゅうめつ)の様子を描いたもので、本図は周囲の人物や動物の描き方が特徴的で、あまり類例のないものです。


毘沙門天図

毘沙門天図(びしゃもんてんず):市指定/観福寺

毘沙門天三尊図の絵画です。大きさはたて74cm、横38cmです。室町時代の作ですが、寛永20年(1643年)と元文元年(1736年)に補修されています。
図の中央の毘沙門天は、いわゆるインドの北方を領有し、その地が財宝の豊かなことから、財施の神様として信仰されています。身は甲冑で固め塔を捧げ、一方の手には鉾を持っています。左下方に唐服に身をまとう容貌うるわしい福徳をつかさどる女神で、毘沙門天の配偶者といわれる吉祥天(きっしょうてん)とその子、善膩師童子(ぜんにしどうじ)が並んでいます。
藤原時代(平安時代の中ころから終わりころ)以降三尊の組み合わせ像が描かれるようになったといわれていますが、三尊の配置からいうと、この図は異色なものといわれています。

不動明王図

不動明王図(ふどうみょうおうず):市指定/観福寺

観福寺にある2幅の不動明王像のうちの1幅です。大きさはたて80.4cm、横37cmです。箱には「寛永二十年(1643年)七月修復法印慶円代」と「元文元年(1736年)十二月十七日修補義忍代」と書かれています。
不動明王は、如来の教えや命令を受けて、憤(いきどお)りと怒りの姿をして、民衆のなかで強情でわがままなものへの教化をするもので、大日如来の変身とか使者ともいわれています。
この絵は古くはっきりしない部分もありますが、岩の上にきぜんと立ち、大きな火炎を背に両眼をみひらき、左の下牙で上のくちびるをかみ、右の上牙で下くちびるをかんでいます。右手に悪魔や煩悩(ぼんのう)をくじく剣を持ち、左手には衆生をもれなく救うための綱を持っています。
不動信仰は、庶民のあいだに厚い信仰があり、諸願成就、災害を除き、賊をうち伏し、財宝を得るなどの功徳があるといわれています。

不動明王図

不動明王図(ふどうみょうおうず):市指定/観福寺

観福寺にある2幅の不動明王像のうちの1幅です。大きさはたて144cm、横71cmです。箱には「智証大師御筆、享保二十年(1735年)正月義忍代」と書かれています。
手足は、隆々とした力こぶ、足は虚空をふんで正面をむき、頭髪はうずまき、両眼は鋭く、両方の牙は上にむき出し、右手に宝剣、左手には綱をとり、恐ろしい表情をしている異相の像図で、体が黄色であるため、黄不動の名があります。
この黄不動によく似ているのが、滋賀県大津の園城寺にある不動明王(黄不動)です。大きさはやや大きく国宝となっています。天台宗の寺には園城寺の像を模写したものが所蔵されている例があるそうで、この図もその一つかもしれないといわれています。

愛染明王図

愛染明王図(あいぜんみょうおうず):市指定/観福寺

絹地に描かれていて室町時代の作品と考えられますが、かなり傷みがあるので、細部はよくわかっていません。大きさはたて92cm、横43.4cmです。
愛染明王は大日如来の変身した姿で、愛欲の心をそのまま菩提心に高める力をもつ明王です。全身鮮やかな深紅色で、日輪をあらわす赤い円形の光背を背負い、同じく紅色の蓮華座に座っています。その下部の台座は宝瓶の形で紅白の布で飾られています。三つ目の憤(いきどお)りの形相ですが、内にこもったおごそかで品位のあるお顔です。頭髪は逆立って愛欲の激しさを示し獅子冠をつけています。左手には五鈷杵(ごこしょ)を持っていますが、そのほかの持ち物はよく判別できません。愛欲の心の悩みをそのまま悟りにまで高めようとする威厳に満ちたすぐれた絵となっています。

釈迦三尊図

釈迦三尊図(しゃかさんそんず):市指定/観福寺

室町時代の作品です。絹地に描かれていて、大きさはたて185cm、横93cmです。
この図の中央尊は釈迦像で、端座し両手とも手のひらを上にしてひざの上に安じ、親指と親指とを稔じている定印釈迦です。右側の脇侍(わきじ)、すなわちお供の菩薩が文殊菩薩です。俗に「3人寄れば文殊の知恵」といわれている獅子に乗った菩薩像です。この菩薩は、福知増長、息災延命をかなえてくれる菩薩として信仰されています。
向かって左側の脇侍は、象に乗っている普賢菩薩です。この菩薩は慈悲をつかさどる菩薩で、法華経で女人成仏の承認となったことが説かれているため、一般に美しい女性の姿をしていることが多く、理(ことわり)をつかさどり、理性的な悟りへの道を象徴するものとして、古来から独立して信仰されてきた菩薩です。