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東海市の歴史

東海市に、いつごろから人が住み始めたのでしょうか。

 現在のところ、市内で最も古い遺跡は、大田町の愛知県立東海商業高校の南に伸びる丘陵上に位置する高ノ御前遺跡(たかのごぜんいせき)で、今からおよそ6,000年前(縄文時代前期前半)に、人が住み始めました。その後、ほとんど空白の時期をおかず、この地に人の営みが続いています。
 古代には、東海市北部の名和町から鳴海(なるみ)、笠寺(かさでら)・熱田(あつた)の台地をめぐる一帯に干潟(ひがた)がありました。この干潟(ひがた)を「あゆち潟」といい、愛知県の県名の語源(ごげん)でもあります。この地は、干潟(ひがた)と伊勢湾(いせわん)を一望できる要衝(ようしょう)の地であり、4世紀ころには、相当な勢力を持った豪族が治めていました。また、万葉(まんよう)の時代、海岸部では製塩(せいえん)が行われ、取れた塩は調塩(ちょうえん)として遠く平城京(奈良)へ送られていました。
 江戸時代、尾張藩2代藩主徳川光友(とくがわみつとも)が、馬走村(まはせむら・現在の横須賀町及び高横須賀町の一部)に御殿(ごてん)を建てて、この地を訪れ、景勝(かげかつ)を賞(しょう)したことから、横須賀町は町方(まちかた)と称(しょう)され、農漁村から商業の町へと変わりました。
 また、江戸中期には、米沢藩(よねざわはん)9代藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)の師である儒学者(じゅがくしゃ)の細井平洲(ほそいへいしゅう)を輩出(はいしゅつ)しました。
横須賀には、大正年間から昭和初期にかけて警察署(けいさつしょ)や旧制(きゅうせい)高等女学校などが置かれ、西知多の政治経済の中心地として発展しました。当時、この地域では酒、みそ、しょうゆなどの醸造業(じょうぞうぎょう)や木綿(もめん)などの織布業(おりふぎょう)が盛んでした。
 また、明治期に始まったタマネギやトマトなどの西洋野菜栽培(さいばい)が盛んに行われ、トマト王と呼ばれている蟹江一太郎(かにえいちたろう)を生んでいます。
 昭和20年代には、県下で初めて球根や観葉植物(かんようしょくぶつ)の栽培が始められました。昭和30年から始まった愛知用水事業は、この地域の農業の高度化、近代化を進め、フキ栽培は、生産量全国一を誇っており、洋ラン栽培と共に都市近郊(としきんこう)農業地帯としての地位を確立しました。また、ノリの一大生産地であった遠く浅い海岸部は、工業用地造成(ぞうせい)のために埋め立てられ、本市漁業の歴史に終止符(しゅうしふ)を打ちました。
 さらに、愛知用水の整備は、工業振興(こうぎょうしんこう)に対する新たな可能性を高めることになり、臨海部(りんかいぶ)には、東海製鐵(株)[現新日本製鐵(株)名古屋製鐵所]を始めとする企業立地が進み、中部圏最大(ちゅうぶけんさいだい)の鉄鋼基地(てっこうきち)となっています。
 昭和44年4月1日、上野・横須賀2町の合併(がっぺい)により東海市が誕生し、新しいまちづくりが始まりました。

沿革図表(えんかくずひょう)

 明治9年に加家村(かけむら)・寺中村(じちゅうむら)・渡内村(わたうちむら)・平島村(ひらしまむら)・清水村(しみずむら)が一つになり荒尾村(あらおむら)に、大里村(おおさとむら)・木田村(きだむら)が一つになり大田村(おおたむら)に、横須賀村(よこすかむら)・横須賀町方(よこすかまちかた)・藪村(やぶむら)が一つになり横須賀村(よこすかむら)へとなりました。

 明治11年に名和村(なわむら)に浅山新田(あさやましんでん)・名和前新田(なわまえしんでん)が加わりました。さらにそこに南柴田新田(みなみしばたしんでん)が加わり新しい名和村(なわむら)に、富田村(とみだむら)・木庭村(こんばむら)・姫島村(ひめしまむら)が一つになり富木島村(ふきしまむら)になりました。

 明治15年に一つになっていた横須賀村(よこすかむら)が、高横須賀村(たかよこすかむら)、養父村(やぶむら)、横須賀村(よこすかむら)に分かれ横須賀村(よこすかむら)はその際に横須賀町(よこすかまち)となりました。

 明治39年に名和村(なわむら)・荒尾村(あらおむら)・富木島村(ふきしまむら)がさらに一つとなり上野村(うえのむら)に、横須賀町(よこすかまち)に大田村(おおたむら)・加木屋村(かぎやむら)・高横須賀村(たかよこすかむっら)・養父村(やぶむら)が加わり、新しい横須賀町(よこすかまち)となりました。

 昭和15年に、上野村(うえのむら)は上野町(うえのまち)となり、昭和44年に横須賀町(よこすかまち)と上野町(うえのまち)が合併(がっぺい)し、東海市(とうかいし)となりました。  

 

まちの名の由来(出典:東海市史)

名和町(なわまち)

波沫(なみあわ)の訳とも、古くは縄郷(なわごう)といったことからともいう。

荒尾町(あらおまち)

むかしは荒太(あらた)と書き、荒太井直(あらたのいのあたい)という姓氏の人がこの地に住んでいたことによるともいう。鎌倉期から荒尾郷(あらおごう)の郷名(ごうめい)がある。

富貴ノ台(ふきのだい)

蕗(ふき)がたくさんつくられていたところで、蕗(ふき)の字では読みにくいので、富貴(ふき)の好字をあてた。

東海町(とうかいまち)

地先に誘致(ゆうち)された東海製鉄(現:新日鐵住金(株))の社名にちなむ。

中央町(ちゅうおうまち)

市の中央部に位置(いち)することから。

富木島町(ふきしままち)

富田村(とみだむら)・木庭村(こんばむら)・姫島村(ひめしまむら)が合併(がっぺい)して成立した村の名前を継ぎ(つぎ)、各村の1字を組み合わせた。

大田町(おおたまち)

大里村(おおさとむら)・木田村(きだむら)が合併(がっぺい)して成立した村の名前を継ぎ(つぎ)、各村の1字を組み合わせた。

高横須賀町(たかよこすかまち)

横須賀村の本郷(ほんごう)にあたり、横須賀町方の上に位置するが、町方(まちかた)に尾張藩(おわりはん)の御殿(ごてん)があったため、上の字をつけることは穏やか(おだやか)でないとして、高の字を用いたという。

中ノ池(なかのいけ)

ため池の中ノ池の地名にちなむ。

横須賀町(よこすかまち)

海岸に形成された洲処(すか)の横にあることによるという。

元浜町(もとはままち)

もとは浜であったことから。

養父町(やぶまち)

藪(やぶ)が養父(やぶ)と書かれた。

加木屋町(かぎやまち)

鎌倉期に熱田の社家田島氏(しゃけ・たじまし)の葬地(そうち)として置かれた神屋(かぎや)があったことによるとも、岐谷(かけや)の転じたものともいう。