東海市の文化財

梵鐘

梵鐘(ぼんしょう):市指定/長源寺

この梵鐘は、尾張藩2代藩主の徳川光友が鐘楼とともに寄進したものです。いつのころからか鐘楼はなくなり、現在は山門に吊られています。梵鐘に刻まれた文字からその由来を知ることができます。第2次世界大戦のときに金属回収の対象となりましたが、その貴重さから回収をまぬがれることができました。

法要決疑論

法要決疑論(ほうようけつぎろん):市指定/普済寺

これは、文明14年(1482年)に逆翁崇順(げいおうそうじゅん・禅宗の僧侶)によって書かれたものです。内容は禅家の法要についてのいろいろな儀礼について、問答形式で解説したものです。永正12年(1512年)に普済寺を開いた大中一介(だいちゅういっかい)に逆翁崇順から授けられ、それ以降、普済寺の住職に代々受けつがれており、その授受年月日がすべて記されています。

村方調宝記

村方調宝記(むらかたちょうほうき):市指定/個人蔵

これは、昔の加木屋村の庄屋だった久野清兵衛義郡が、寛政4年(1792年)正月から文化10年(1813年)までの22年間、職務上の諸問題を書きつづけた記録です。たて21.1cm、横15.2cmで、美濃紙489枚の1冊で、木箱に納められています。内容は、年貢、水利、土木、戸籍、社寺、風俗、災害、裁判、営業など村民生活全般にわたっており、とりわけ社寺信仰の問題と租税関係の記録が多くなっています。東京の徳川林政史研究所にも、上・中・下の3冊で村方調宝記がありますが、その末尾に書かれている奥書によって、昭和10年7月に、東海市のものから書き写されたものである事がわかっています。

嚶鳴館遺草版木

嚶鳴館遺草版木(おうめいかんいそうはんぎ):市指定/平洲記念館

「嚶鳴館遺草」は細井平洲の和文体の遺稿集で、全部で6巻あります。米沢藩や尾張藩などへ送った手紙や意見書などが集められ、平洲の教えを解明する重要な資料となっています。平洲が亡くなってから35年後の天保6年(1835年)に完成しました。多くの人に読まれていますが、その中でも、幕末の吉田松陰、西郷隆盛などにも影響を与えたといわれています。

細井平洲寄進の石灯籠

細井平洲寄進の石灯ろう:市指定/八柱神社

本殿の右横にあります。天明元年(1781年)に細井平洲が寄進したといわれています。花こう岩製の石灯ろうで、高さは1.5mですが、上部が一部欠けてしまっています。石灯ろうには、「細井甚三郎徳民」という名前と「天明元年辛丑九月」という年号が刻まれています。細井平洲は、この前の年から尾張藩に仕えています。

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法衣

法衣(ほうえ):市指定/普済寺

この法衣は、普済寺を開いた大中一介の使ったものと伝えられています。500年に近い年月を経た貴重な遺品です。

獅子屋形

獅子屋形(ししやかた):市指定/諏訪神社

 

獅子屋形とは祭礼の際、屋形に獅子頭を納め、それを長持と呼ばれる台上へ獅子屋形

太鼓と共に載せ、担い棒を前後に通して数人で担ぐものです。本資料はその

屋形部分が残存しているものです。

江戸時代は諏訪神社氏子の今川組が所有し、明治時代以降は個人蔵となって

いたものを買い戻して再び諏訪神社所有となりました。

軒の鬼板や四隅の斗供の意匠等が特徴的であり、尾張地方に残る獅子屋形で

も古い様相を残しているとされます。四面の欄間状部分には山車彫刻等を手

広く手掛けた名古屋の彫刻師、瀬川治助重定の銘のある素彫りの彫刻が施し

てあります。獅子屋形で外側から彫刻師の銘がわかるものは残されておらず、

貴重な資料です。                                        

 

 

 

 

 

 

 

御殿万歳

御殿万歳(ごてんまんざい):市指定

御殿万歳は、今から700年ほど前に木ケ崎長母寺(今の名古屋市東区)から伝わったもの(尾張万歳)と370年ほど前に三河の院内村(今の安城市)から移住してきた多くの陰陽師(おんみょうじ)と共に伝わったもの(三河万歳)の2種類の流れを組んでいます。
「万才之故実」という古文書には万歳の始まりが書かれ、また、猿猴菴(尾張藩士高力種信)の随筆「快草」には、尾張万歳の始めは鍵屋村、藪村(今の東海市)、寺本村(今の知多市)の百姓たちが年貢を納めるのに困ったため、万歳を各地で公演して、そこでもらったお米で年貢を納めたいとの願いが許されたなどなどと書かれています。
古来は将軍家を始め、毎年正月には大名や旗本屋敷を訪れるのが恒例となっており、鼓の音で大門を開き、めでたく初春をお祝いするという縁起の使者であったと伝えられています。

御殿万歳パンフレット(PDF形式 1414KB) <2010年3月発行>

*本データは、パンフレットをスキャンしデータ化したものです。一部画像等、不鮮明の場合があります。

*パンフレットは、社会教育課窓口で配布しています。

名和古墳群

名和古墳群(なわこふんぐん)・市指定史跡/名和町三ツ屋

名鉄名和駅から東へ、一番畑の集落を抜けて、大高に通じる道をたどった緑陽小学校の南の道を東に入った丘陵の上に名和古墳群があります。標高約10mの丘陵上にある現存している3基の円墳(1・2・3号墳)で構成され、三ツ屋古墳群とも呼ばれています。1号墳については、明治29年に土地所有者がその副葬品を発見し、世間に話題を提供しました。また、昭和28年には、上野中学校が発掘調査をしています。その結果、直径20mの円墳で、内部に平石を7から8段積み上げた横穴式石室が確認されています。石室からは坏、壺、器台などの須恵器と呼ばれる陶器や鉄鏃が出土しました。名和古墳群が築かれたのは、古墳時代の終わりごろと推定されますが、当地に残る万葉時代の伝説をもとに、古代人の行きかう姿を想うのもおもしろいかもしれません。