平洲塾190 「おことば集」を書くにあたって(つづき)

平洲先生のことば(2) ~言われたかも知れないことを含めて~

 ひとつ例をあげておきます。

 ぼくはいま住んでいる東京都目黒区の名誉市民になっています。定員は2人で、もう一人は王貞治さんです。でも王さんは日本の国家的仕事に忙しいので、区プロパーの行事のあいさつやお祝いのことばなどは、大体ぼくがつとめます。

 その中で、おそらくそんな例は全国の自治体でもあまり例がないだろう、と思ってぼくが実行しているのが、

 「成人式と老人の日に贈ることば」

 が全くおなじ内容だということです。

 これは完全に、

 「平洲先生ならきっとそうしただろう」

 と、ある時、突然思い立ったからです。

 (平洲先生ならオコるまい)

 と思ったことと、平洲先生も、

 「ドーモンちゃん、いいことを思いついたね」と、いってくださるだろうと考えたからです。

 両行事でのあいさつは「お祝い」とタイトルを振ってあります。ぼくの生き方の根幹に触れるものです。

 昭和23年(1948年)、ぼくは満20歳でした。そのころは戦後の大混乱で、ぼくたちは食べるものを手に入れるのに目の色をかえていました。成人式どころではありません。

 でも一方では知的欲求もありました。ぼくは焼け残った神田の古本屋街に通いました。やがて、ある本をみつけました。

 ルーマニアの作家コンスタンチン・ゲオルギュ(いろいろな呼び方があります)の『25時』とその続編『第二のチャンス』です。

 その本には、

 ・いまのルーマニアはスターリン体制で、1日が24時間ではなく、25時間だ。

とありました。

・しかしわれわれは絶望しません。

 ・たとえ世界の終末が明日であろうとも、わたしは今日もリンゴの木を植える。

と書いてありました。

 ドカーン! と地雷をくらった衝撃でした。(これだ! これがいまの世界で生きぬく言葉だ!)と思いました。

 それがぼくの場合は、太宰治さんの、

 「かれはなによりも人をよろこばせるのが好きであった」――これをぼくは『論語』の"徳"だと理解しています。黒澤明監督の"生きる"や"七人の侍"の主人公たちの、"哲学"に発展させていったのです。

 とくに"職業としていた地方公務員の心がまえ"に結びつけました。

 東海市がぼくを発見してくださったのは、そういうご縁です。とくに鈴木淳雄前市長さんが細井平洲先生との濃厚な接触のお仕事をくださったことが、ぼくの生き方を完全に変えました。

 このコーナーでは、ぼくとしては平洲先生の言行を追います。それも両国橋での庶民への講話から辿ります。段々あきらかにしますが、ぼくはぼくなりに、この仕事に平洲先生の大目的を発見しているからです。どうぞみなさんもお手助をお願いいたします。

 先般、落語家の柳家小三治さんが亡くなりました。本題に入る前の"枕(まくら・序論)"のほうが長かった人です。それが愛されました。しかし"はなし(落語)"の本道ではないでしょう。

 ぼくもその"わだち(よくない前例)"を踏みたくありません。次回からキチンと仕事をいたします。どうぞ温かい目で満94歳をみつめて下さい。