平洲塾191 この世における「学問の責務」

平洲先生のことば(3) ~言われたかも知れないことを含めて~

◆孔子先生の美談も笑い話に…

 落語家〈はなしか〉の故柳家小三治〈やなぎや・こさんじ〉さんのクセがうつって、ぼくの話の進みぐあいも、"枕(まくら・序論)"の"うまや火事"のところで足踏みしています(童門冬二の平洲塾 187回・188回参照)。キチンと元へ戻します。

 "うまや火事"の原点はあきらかに孔子の『論語』にあります。

 みごとな白馬を飼っていた孔子は、ある時、留守中に火事にあいます。しかし、家に戻った孔子は使用人たちの無事をよころび、白馬のことには触れませんでした。家人も世人も孔子の価値観のおき所に感動し、孔子の美談の一つとされています。

 にもかかわらず、この落語ではグウタラ亭主が「もしも女房が手にケガでもしたら、髪結いの仕事ができず、オレも遊んで食えなくなる」とボヤきます。

 落語にはすべて"オチ"があります。"サゲ"ともいいます。話の"おとしどころ(結論)"をいいます。

 この話では、あまりにも自分勝手なグウタラ亭主の、自分勝手なエゴイズムがオチになっているのです。

 誰もが「アキれてモノもいえない」この男の徹底したグウタラぶりに呆〈あき〉れるのです。ところがそのあと、急にあるオカしさが訪れ、聞いた人たちはプッと吹き出します。このおかしみが"うまや火事"の生命〈いのち〉なのです。

 ふつうなら、「大聖人の孔子先生の美談を笑い話にして」

 と怒るのが当たり前です。

 「それを笑い話にしてしまう、この感覚(価値観)は一体どういうものなのだ?」

 平洲先生は両国橋の袂〈たもと〉で必死に探し求めます。そして辿〈たど〉りついたのは、

 「結局は、庶民には別な価値体系がある」

 ということでした。

 孔子の美談よりも、グウタラ男のエゴイズムを面白がる、別な生活感覚が存在するということでした。平洲先生は考えこんでしまいます。


◆"堀の内"と"浮世根問"

 別の日、平洲先生は別の落語"堀の内"に出会います。現存するお寺にかかわる話です。マセた子どもが父親と参詣します。途中、子どもはあらゆる物に興味をもち、父親に「なぜ? なぜ?」とききます。父親は困り果てます。お菓子を買ってゴマかすのですが、問題は解決しません。

 その後、平洲先生は"浮世根問〈うきよねどい〉"という話をききます。このころは平洲先生もかなりの落語通(落語オタク)になっていたと思います。

 浮世は"憂き世"ともいい、人間社会の辛〈つら〉さ暗さを言った表現です。"根問"とは、その"うき世"を構成している諸要素や諸条件に対する疑問をいいます。つまり、

 「なぜ世の中にはこんなことがあるのか?」

 という疑問です。

 "根"とは"根本〈こんぽん〉"のことです。"根問"とは、その"根本のことに対する疑問"のことをいいます。

 落語では、もの知りのご隠居に、知りたがり屋のクマ(長屋の住人)が、あらゆることについて、根堀り葉掘りきくという構成になっています。ご隠居は答えざるを得ません。

 平洲先生は別なうけとめかたをしました。つまり、「クマの疑問は正しいのではないか?」ということです。

 クマがきいているのは、自分が生きている社会(憂き世)に直接かかわりをもつことで、別にちがう世界のことじゃない。

 ここで(ぼくの想像です)平洲先生は大変なことに思いいたります。それは、

 「クマのきいていることに、キチンと答えるのが学問の役割ではないのか?」

 ということです。つまりこの世における「学問の責務」のことです。

 平洲先生の"両国橋通い"には、この重大な"自己存在の再認識"があったのです(と、ぼくは考えています)。


◆ぼくが知多半島にこだわる理由

 柳家小三治的"枕"の積み残しのもう一つは、ぼくの知多半島へのこだわりです(「童門冬二の平洲塾」174~176回参照)。なぜこだわるのか?

 ぼくにとって知多半島は、ある頃はにぎやかな"港湾都市群"であり、それも半島単独のものではなく、とくに南北朝時代は伊勢から熱田〈あつた〉に通じる、南朝にとって重要な物流通路だったことです。

 そして、この飛び石的な、今風にいえば"アマゾン航路"で、楠木正成〈くすのき・まさしげ〉や名和長年〈なわ・ながとし〉らが、本業の物流に大いに努力していたことです。

 下情に明るい後醍醐〈ごだいご〉天皇は、吉野山から退き伊勢湾を目指そうとした時に、この地方を支配する北畠氏を協同させました。

 そして皇子たちを自分の代理として諸国に派遣しました。力を入れたのが東海と東国です。伊勢湾の諸港の機能は当然、知多半島にも求められます。

 コジツケですが、ぼくは平洲先生の最初の留学先が長崎であること、中国語をペラペラになるまで身につけたことなどの努力は、海港機能とのかかわりで、平洲先生との結びつきが全くなかったとは思えません。