平洲塾194 日本的ポピュリズムの発見 ~人見弥右衛門と平洲先生~

平洲先生のことば(6) ~言われたかも知れないことを含めて~

◆両国橋脇の青空寄席での発見

 尾張藩をコア(芯)にして、「中京の文教改革」を発信しようとしたのは、

尾張藩の新藩主に高須〈たかす〉藩(岐阜県海津市)から養子を迎えた人見弥右衛門〈ひとみ・やえもん〉です。

この企〈くわだ〉てのプロデューサーです。

 人見はこの事業の推進役に細井平洲先生を迎えました。その狙〈ねら〉いは何だったのでしょうか。

ぼくは平洲先生が両国橋脇の青空寄席で発見し、自らも体感した民衆芸能、それも特に「落語」にあったと思います。

 平洲先生が両国橋に通ったのは、

 「やさしいことをわざとむずかしく表わす」

 という、当時の学者の悪癖に反発して、

 

 ・表現は平明にわかりやすくする。

 ・何が問題であるか、伝えたいモチーフやテーマもハッキリさせることに主眼をおく。

 ・むずかしい言葉や用語は極力排除する。

 

 という要素で成立している落語に、特に自分の目的に合致するものを発見しました。

 しかし接しているうちに、「おや?」と思うことが多くなりました。

たとえば、この連載の187回と188回で紹介した「うまや火事」です。

少し学があればこの話の出典が孔子の『論語』にあることをすぐ見抜きます。

 『論語』では良識人(インテリ)の美話ですが、落語ではグウタラ亭主の、

自分の現状破壊をおそれる話になります。聴く人々は大笑いします。

そして共感します。多くはグウタラ亭主に、です。

 (この感覚は一体何だろう?)

 平洲先生は考えます。

 そしてある日、

 「自分の知っている生活の価値体系とは、別の体系がある」と気がつきます。

 「だから話の原点が論語であろうと、この話が孔子先生の権威をこわしていることなど、

まったく意に介していないのだ」とさとります。

 (これはまちがいない)

 ですから他の話を検証してみても、この考えをアテはめてみればナットクできるのです。

 そして別の価値体系に依る落語(ひろげれば両国橋の大衆芸能)を愛する人々は、集まることによって、

互いに今日生きている源泉が武士の価値体系とはちがうことを口には出さないけれども確認し合っているのです。

 

◆ポピュリズムの力

 ポピュリズムの問題は、アメリカでも一部マスコミがチラっと触れただけで長くは続かず、早く消えました。

その背後にある底知れぬパワーを垣間見たからでしょうか。

 ポピュリズムの力を日本は正統に評価しています。

 雑草は、

 ・種類が多い。

 ・生命力が強い。

 ・繁殖力も強い。

 ・生きる場をえらばない。

 など、一般の常識からはなれた場所で、独特な生き方をしています。

 その生き方が人間を健康にするのです。

 ぼくはすでに、"残り時間"の少ない身ですが、できれば雑草のセワにならずにシツレイさせていただくつもりです。

 冗談はおいて、幕末長州藩の吉田松陰は、

 「武士はもう世の中を変える役には立たない。草の群れだけが頼みになる」

 といいました。

 松陰は農業にも関心をもち、主食のコメ以外は塾の庭で門人といっしょに作っていましたから、

平洲先生の『嚶鳴館遺草』を読んでいたのかも知れません。

 

 歴代の徳川将軍の中で、最初に国政の対象に「市民の存在」に注目したのは、8代目の徳川吉宗です。かれは、

 「市民のニーズを無視しては、徳川幕政は成り立たぬ」

 と考え、大岡忠相〈おおおか・ただすけ〉を江戸町奉行にして、江戸市民のニーズに応えました。

投書箱(目安箱〈めやすばこ〉)に投じられた町医者の建言で開設した

「小石川養生所」(老人の福祉施設。のちの東京市立養育院。院長は渋沢栄一)はその一つです。

 "寛政の改革"を進める老中松平定信は吉宗の孫です。吉宗の長子、田安宗武〈たやす・むねたけ〉の長男です。

当然、"吉宗政策"の影響をうけます。

 弱者救済・犯罪者の社会復帰などが定信によって新しく加わりました。孤児対策も市民権を得ました。

これらの費用の一部は、「七分金積立」とよばれて、江戸の町々の負担になりました。

今日の"自助・互助・公助"のハシリです。

 テレビで人気のあった"鬼平〈おにへい〉"は、実はこういう福祉対策(特に犯罪者の社会復帰)に活躍した人物です。

そして鬼平の小説を書いた池波正太郎さんは、東京都庁の職員で、ぼくより2年先輩です。

「ぼくは午後8時から小説を書くよ」と言って、夜の酒の集まりは避ける方でした。

 

◆平洲先生を文教政策の芯に

 さて、両国橋の袂〈たもと〉に集まる市民は今日でいういわゆる「公衆」でした。

大衆から自分たちの努力で止揚(アウフヘーベン)を成しとげていたのです。そして、

 「オレたちは別な価値体系で生きていく。おたがいにおかまいなく生きましょうや」

 という気持ちを持っていました。

 武士たちに負けない知力、生活力を持つ人がたくさんいました。しかし吉宗政策には協力的でした。

 この"江戸のポピュリズム"を発見した平洲先生に気づいたのが人見弥右衛門です。

 かれは平洲先生の言行をしばらくみて、

 「いま計画中の、"中京の文教政策"の芯になってもらおう」と心を決めたのです。

 新藩主との相談で、すでに、

 「藩校の再建」

 も決まっていました。

 「そこの学長も細井先生にお願いしよう」

 と、これも心の中できめました。

 ただ、大きな問題がありました。それは、

 「文教政策のレールをどう敷くか」

 ということです。

 具体的には、

 ①藩祖徳川義直の"蓬莱〈ほうらい〉思想"と

 ②尾張に伝承の"あゆち思想"

 のどちらに依拠するかということです。

 乱暴に結論をいえば、このことに深くかかわりあった平洲先生は、どっちもに依〈よ〉らずに、

独自なそして新鮮な場を用意したと思います。次の回に続けましょう。     (つづく)