平洲塾195 「中京の文教政策」の開幕 ~人見弥右衛門と平洲先生~

平洲先生のことば(7)~言われたかも知れないことを含めて~

◆論語を中国語で講義

 名古屋城の一室に寝転がって、人見弥右衛門〈ひとみ・やえもん〉は"ゆめのあと"を読んでいました。

この本は"ジャジャ馬藩主"として皆が手を焼いた徳川宗春〈むねはる〉の政治論を書いたものです。

 読みながら弥右衛門は、

(全部否定はできない。いいことも書いてある)と胸の広い所もみせていました。

と、入口に人影が。パッと飛び起きました。

 人影は細井平洲先生でした。

 「これは細井先生。ご用なら伺いましたのに」

 「いや、ちょっとお願いがありまして」

 「先生にお願いといわれると、おことわりはできませんなぁ。で、どのような?」

 「藩校の講義のことです」

 「講義に何か不具合が?」

 「そうではありません。私にも一講座持たせてほしいのです」

 「願ってもないことです。学長の講座ならドッと門人が押し寄せます。藩校の目玉になりますよ。

何をお話し下さいますか?」

 「論語です」

 「ピッタリです。ぜひお願いいたします」

 「論語は全部中国語でいたします」

 「えっ?」――一瞬、弥右衛門の胸がつかえました。つかえは疑問になりました。

 「論語を全部中国語でご講義なさると?」

 ききながら弥右衛門は思い出していました。細井平洲先生が中国語の大ベテランであることを。

 若いころ中国語にハマって、日常の生活用語や研究中の学術用語もほとんど完全にマスターした人物だ、

と噂〈うわさ〉の高かったことを。

 プロデューサー的素質のある弥右衛門は、平洲先生の申し出を、

たちまち現在の大目的である"中京の文教振興"に結びつけました。

 「尾張藩の学校では、学長が本場の中国語で論語を教えているぞ」

 これは大変な宣伝効果です。ウソやハッタリでなく、平洲先生は本当にそれができるのです。

弥右衛門は、(オレとしたことがなぜそこに気づかなかったのだろう)と

クヤシサに自分の頭をガンガン叩〈たた〉きました。平洲先生は笑い出しました。そして、

 「お願いはもうひとつあるのです」

 

◆九州からは留学生、佐藤一斎は岩村で講義

 「どうぞ何でもおっしゃって下さい」

 「九州の佐賀藩に多久〈たく〉という佐賀藩の領邑〈りょうゆう〉があります。

ここには美しい孔子廟〈こうしびょう〉がつくられていて、聖堂では子どもたちに論語を教えています。

その中から3人か5人選んで私の講座に招きたいのですが」

 「学長ご招待の留学生ですね。いいですよ。招きましょう。

子どもたちは習得した学業を持って多久に戻ると中国語で教えると、こういうことになるわけですね」

 「人見さんは察しがいいのが評判です。その通りです。では、子どもの留学生も了承?」

 「です」――しまいには弥右衛門は笑い出しました。それも高笑いで。そして告げました。

 「細井先生って楽しいなぁ。人をよろこばせることばかり思いつく。本当に嬉しい先生ですよ」

 「そうでもないですよ。つぎのお願いは楽しくないのです」

 「先生にそんなお話があるのですか?」

 「あります」

 「どのような?」

 「佐藤一斎先生のことです」

 「ああ」

 弥右衛門はうなづきました。

 「でも一斎先生には今度の中京の文教振興にご参加いただいて、

江戸で『言志四録』や岩村藩のご重役として『重職心得』など

実用的なご講義をいただくことに、ご承諾を得ておりますが…」

 「そのことは私も承知しております。問題はご講義の会場です」

 「会場がどうかしましたか?」

 「岩村(現在の恵那市岩村町)に行くとおっしゃるのです」

 「えっ?」

 弥右衛門はびっくりして目を大きく開きました。

 「本当ですか?」

 「本当です」

 「そんな…」バカな、といいかけてすぐいいかえました。

 「ありがたいことを」と涙ぐみました。

 「それで細井先生は?」

 「あなたと同じです。感動しました。お先走りで申し訳ありませんが、

ぜひお願いいたしますと申し上げてまいりました」

 「よかった! ありがとうございます」

 こうして佐藤一斎の岩村行き(岩村藩松平家。林述斎の生家・一斎家は家老〉)が加わって、

「中京の文教振興」の拠点である、尾張藩徳川家の藩校明倫堂の整備開講式を皮切りに、

文教振興の行事がつぎつぎとおこなわれました。

(このへんからぼくの"ひょっとしたら? がいろいろ入ります" 

佐藤一斎先生を平洲先生と同時代の人としたのもその一つです。ドーモン・スミマセン)。

 

◆大盛況で始まった文教政策

 明倫堂での平洲先生の「中国語で語る論語」は珍しい試みなので、時間は15分でしたが、

大好評で終了後、「謝謝〈シェ・シエ〉=ありがとう」の声の波。

さらに「再見〈ツァイ・ツェン〉=早く2回目をやって下さい」という要望の中国語がとび交いました。

名古屋をはじめ中京には中国の出身者がたくさんいたのです。かなりの数が行事に参加していました。

藩祖徳川義直〈よしなお〉の方針で、亡びた明〈みん〉からの亡命者が多かったのです。

 平洲先生はすぐ2回目を決めました。時間は1時間にしました。聴衆は大喜びです。先生もルンルン気分です。

こんな嬉しそうな先生の姿は珍しく、しきりに「謝謝〈シェ・シェ〉」とお礼の言葉をふりまいていました。

弥右衛門もいっしょになって礼をいいました。多久からは重職がきて大喜びでした。

子どもたちは(3人)そのまま名古屋に滞在し、平洲先生の家に居候することになりました。

先生は「日常の生活用語は中国語にしようね。教えてあげるからね」と、親切に指導しました。

 別動隊の岩村の一斎先生は予想以上の大好評で、行事の仕切役で一斎先生の大研究家・鈴木先生は大忙しです。

特に特別講義の"重職心得"は、ホットでフレッシュなので、岩村藩の藩士の参加も多く、

話に「そうだ。そのとおりだ」と皆うなづいていました。

 一斎先生が話の途中で、

 「私も岩村藩の重職だよ。自分にいいきかせているのだ」というと、聞き手はドッと湧きました。

"中京の文教振興"は大盛況で幕を開きました。                  (つづく)