細井平洲のことば

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ページ番号1004492  更新日 2023年2月20日

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ふるさとをよりどころにして生きた・細井平洲

細井平洲(ほそいへいしゅう)は、財政困難に陥った米沢藩(山形県米沢市)を一代で立て直した第九代藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)の先生として、また尾張藩の藩校「明倫堂(めいりんどう)」の督学(とくがく)(校長)として、その名を歴史に残しています。
平洲は享保13年(1728年)、知多郡平島村(ひらしまむら・現在の東海市荒尾町)の農家に生まれ、甚三郎(じんざぶろう)と名付けられました。少年のころ、となりの加家村(かけむら)にあった観音寺(かんのんじ)の寺子屋へ通い、その後名古屋で教えを受けるようになりました。
そうした中で、学問に興味を抱き、京都、長崎まで出て勉学を積み重ねました。こうして学問を積み重ねるうちに、学問を通して世のため、人のために役立つ人間になるのだと決めて、学者として、国を豊かにし、そこに住む人々が幸せになることをめざしました。
学者となる大志を抱いた甚三郎は、やがて「平洲(へいしゅう)」という号(ペンネーム)を付けました。その後、「如来山人(にょらいさんじん)」とも名乗るようになりました。
この平洲の名は、平島の読み替え(平島=平洲)であり、如来山(にょらいさん)は観音寺の南にあった小高い山の名で、小さいときによく遊んだところでした。甚三郎は、学者となる夢を抱いた出発点において、ふるさとにちなんだ名前を付けたのでした。
その後、平洲はふるさとへ帰ることはほとんどありませんでしたが、53歳のときに尾張藩から請われて藩の儒者(じゅしゃ)となったときに、ふるさとの八柱(やはしら)神社に燈籠(とうろう)を寄進しました。寺子屋に行くとき、いつも通った神社でした。
平洲は、こよなくふるさとを愛し、心の支えとして生きたのです。

その1:まず、親が、手本を見せよう

平洲は、「子供というのは、いろいろと親のまねをします。それは、幼いときから、親のしぐさや話を見たり聞いたりしているからです。ですから、子供に善いことをさせようとするならば、まず親が善いことをして、見せるようにするのが当然です」と、まず親が手本となることの大切さを説いています。親を大人とか社会に読み替えてみても同じではないでしょうか。
また、「人に、善いことと悪いことを判断して見分けることを教えなくて、善いことをしなさい、悪いことをしてはいけない、と言っても、その判断ができるものではありません」と説いています。子供ならなおさらです。
このように、子供の身の回りにあっては、まず、親や大人の行いが大切であることを再確認しなければなりません。

その2:幼いときから、善い習慣を身に付けさせる

平洲は、人の成長には子供のころ(幼)・成人となってから(壮)・年を取ってから(老)の三段階があって、それぞれの段階に応じた教えが大切であると説いています。
このことを木の成長に例えて、始め(幼)の段階について、「苗木(なえぎ)のときにはすべて柔らかく、まっすぐにも育てられるし、曲げて育てることもできる。苗木のときから心を尽くして育てれば、その後はあまり苦労せずに、良い木に成長させることができる」と、幼いときの育て方の大切さを説いています。
そして、「柔らかい苗木だからといって、無理に曲げたりして、自分の自由気ままに育てようとすれば、どんなに強い木であっても、傷ついて、やがて、成長したところで、ひねくれたり、ねじれたりして、役に立たない木になってしまう」と、勝手気ままな育て方を戒めています。
では、子育てに当てはめるとどうかと言いますと、「幼いときから善い習慣を身に付けさせることが大切で、まだ幼いのだからといって、なおざりにしてはいけません」と、述べています。
習慣とは、習い慣れると書きます。繰り返し習い、それが決まりのようにして体の中に染み込み、意識せずに行いに現れることです。幼いときの習慣が、成長してからも身に付いているから、その大切さを説いているのだと思います。
そして、「成長してから強くて堅い木になるものであっても、苗木のときは、皆柔らかくて弱いものであるから、大木の陰でなければ、風雨をしのいで育つことができない」と言っています。「大木としての親や周りのかたが、幼い子の陰日なたとなって、風雨から身を守るように」とも説いてます。

その3:人にとって大切なのは、譲り合う心

平洲先生は、人にとって最も大切なことは「譲る」、「相手を思いやる」ことであり、反対に「思い上がり」、「相手のことを考えない自分中心の行い」が最も人の道にはずれたことだと説いています。
思い上がるとは、「自分ほど物知りな者はいないなどと誇り、他人を見下す行い」であって、「人と人との交わりにあっては、この思い上がりの気持ちをなくして、譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶ」と説いています。
米沢藩が藩の学校を設立する際に、その指導に当たった平洲先生は学校を「興譲館(こうじょうかん)」と名付けました。
興譲とは「譲(じょう)を興(おこ)す」と読み、人を人として敬い、譲り合う生き方が徹底すれば仲のよい地域社会となり、そのことによって国も栄えるという理念を示しました。実際、この国では、領民がこうした心持ちになったことによって、新しい国づくりが成し遂げられました。

その4:先施の心

平洲先生は、人との付き合い方について常々説いています。その中で「先施(せんし)」という言葉は、よく知られています。
「先施とは、先(ま)ず施(ほどこ)すということです。人との付き合いでは、相手からの働き掛けを待つのではなく、自分の方から働き掛けていかなければなりません。人に親しみをもってもらおうと思うなら、自らが親しみをもって接していく。人から敬(うやま)われたく思うのならば、自らが人を敬う気持ちをもつ。こうした自らの働き掛けが、人の心を動かすのです。特に、親と子、年長者と年少者、上司と部下といったような上下の関係にあっては、上に立つ方から、進んで働き掛けることが大切です」と説いています。
そのたとえとして「下の者が上の者の前に出たときに、上の者が『まず、こちらへ』と声を掛けなければ、下の者は『それでは』と言って前に進むことができませんよね」と述べています。そして、「上の者が、下の者からの働き掛けを待っていたり、年寄りが、幼い子から懐かれるのを待っていたりというようなことでは、年長の者からの働き掛け(施し)が何もないわけですから、年少の者が親しみをもつはずもありません。このように、上の者が『下の者から働き掛けてくるべきだ』と待っていると、お互いがにらみ合っているような状態で、なかなか寄り付くことができません。寄り付く心がないと、親しみがなく、間を隔ててしまい、結局は仲たがいのもとになってしまうのです」と説いています。
そのため、人が人とのつながりをもって仲良く暮らしていくのに、先に施す「先施の心」が大切ですよと教えています。「あいさつ」一つとっても同じではないでしょうか。まず自分から声を掛ければ、相手も返してくれるでしょう。

その5:学んだことを生かす

平洲先生は、学者として国を豊かにし、そこに住む人々が幸せになることを目指しました。
その信条として、「実践」を最も大事にし、常々、「学問と今日とは二途(にと)にならざるように(学問したことと現実とが別々にならないように)」とか、「学(がく)、思(し)、行(こう)、相須(あいま)つ」と説かれています。これは、学び、考え、実行することが三つそろって、初めて学んだことになるということです。
すなわち、「学問するということは、知識を得るためだけのものではなく、学んだことを生活に生かして、よりよくしていくことが目的なのです」と言っています。
平洲先生自身も、ただ単に知識を得るために学問をされたのではなく、人々が少しでも良い生活を築けるようにするために学問を積み重ね、その思いを生涯貫かれました。実際、有名な学者となってからも、両国橋のたもとで庶民を相手に講釈をされ、自分の学んだことを説き続けられました。
平洲先生に学んで大きな影響を受け、名君とたたえられた米沢藩主の上杉鷹山(うえすぎようざん)公も、「平洲先生は、学ぶとは、学んだことを生かすことが目的であると、常に教えられた」と述べています。
この教えを受けた鷹山公自身も、藩政の改革では、一国の殿様であるにもかかわらず、まず自分から食事は一汁一菜(いちじゅういっさい)とし、普段着も木綿の着物で通すという倹約に努めました。
その上で、経済的に苦しくなった農村の振興、殖産興業(しょくさんこうぎょう)の実施、学問の奨励といった諸施策を次々と打ち出して、家臣や領民の信頼を得て、実りあるものにしていきました。

その6:勇気をもってことにあたり夢をかなえる

平洲先生の教えを受けた若き米沢藩主・上杉鷹山公は、19歳のとき初めてお国入りをしました。この鷹山公には、財政が困難で国自体の運営が、立ち行かなくなっているという大問題が立ちはだかっていました。
鷹山公は、この初めてのお国入りに当たって、平洲先生に会いました。そこで、「わたしは幼いままで、藩の人々に藩主として臨むことになります。このことが気になって心が落ち着かず、薄氷の上を歩むような気持ちでおどおどしています。どうすればよいのか、教えてください」と尋ねました。
先生は、「藩主となるあなたに、大事であると思うこと、お手本にしたほうがよいと思うことはすべて教えました。あなたは、これからは、現実の政治を行っていかなければなりません。藩の人々の暮らしを豊かにしていくためには、まず自らが身を正しく修めて、絶えず努力して、自分の信じるところを貫いていかなければなりません。こうしたことは、勇気のある者だけができるのです。勇気ですよ、勇気なくして、どうして政治ができるでしょうか(勇なるかな勇なるかな、勇にあらずして何をもって行なわんや)。いよいよそのときが、やってきたのです」と話されたのです。
鷹山公は、「よいことをお聞きしました。このことを帯に書いて忘れないようにします」と答えられました。
こうして鷹山公は、平洲先生のこの言葉を胸に抱いて、藩政建て直しの政治に当たられたのでした。その藩建て直しの政治は、亡くなるまでの50年余りに及び、借財11万両を返済し、藩の蔵に5,000両の蓄えができたのは、鷹山公が亡くなった年のことでした。

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