細井平洲
細井平洲(ほそいへいしゅう)は、江戸時代の儒学者。米沢藩(今の山形県米沢市)中興の祖と言われる上杉鷹山(うえすぎようざん)の師として、多くの教えを残しています。
細井平洲は、享保13年(1728)6月28日、尾張国知多郡平島村(愛知県東海市)に農家の二男として生まれました。幼年時代から学問に励み、名古屋、京都で遊学の後、17歳で中西淡淵(なかにしたんえん)に師事。18歳のとき淡淵の勧めで長崎へ行き3年間にわたって中国人について中国語を学びました。
師の勧めにより24歳で江戸へ出て、私塾「嚶鳴館(おうめいかん)」を開き多くの人材を育てると共に中国の古い書物を研究し、学者として知られるようになりました。
実学を重んじ、経世済民(けいせいさいみん・世を治め、民の苦しみを救うこと)を目的とした彼の教えは、全国各地の大名から一般庶民まで幅広い層の心をとらえ、西条(愛媛県)、人吉(熊本県)、紀州(和歌山県)、郡山(奈良県)などの藩の賓師(ひんし)として迎えられました。
明和元年(1764)、平洲が37歳のとき米沢藩(山形県)の藩主となる当時14歳の上杉治憲(うえすぎはるのり)(鷹山)の師として迎えられ、平洲は全力を注いで教育にあたりました。17歳で藩主になった鷹山は、平洲の教えを実行して、人づくりを通して農業や産業を振興し、窮乏(きゅうぼう)を極めていた藩財政を一代で立て直し、名君とうたわれました。平洲と鷹山の終生変わらぬ師弟の交わりは、現在も語り継がれています。
安永9年(1780)尾張藩主徳川宗睦(とくがわむねちか)の侍講(じこう)となり、また、尾張藩校の初代督学(とくがく)となって藩学の振興につとめました。さらに藩内各地で廻村講話(かいそんこうわ)(講演会)を開き庶民教育にも努めました。
享和元年(1801)6月29日、74歳で江戸でなくなり、お墓は、東京浅草の天嶽院(てんがくいん)にあり、東京都の旧跡に指定されています。
平洲の教えは、幕末の吉田松陰、西郷隆盛らにも大きな影響を与えたといわれ、また、内村鑑三は、代表的日本人の一人として上杉鷹山を取り上げるとともに、その師、細井平洲を当代最大の学者と紹介しています。
細井平洲年譜
- 1728年 享保13年
- 6月28日、平島村(今の荒尾町)に生まれる。
- 1735年 享保20年
- 加家村観音寺の義観和尚に学ぶ。
- 1737年 元文2年
- 名古屋に出て学ぶ。
- 1743年 寛保3年
- 京都に遊学する。
- 1744年 延享元年
- 名古屋へ帰り、中西淡淵に入門する。
- 1745年 延享2年
- 長崎へ遊学し、中国語を学ぶ。
- 1751年 宝暦元年
- 江戸へ出て、私塾を開く。
- 1753年 宝暦3年
- 伊予西条藩主の師となる。私塾を嚶鳴館とする。
- 1764年 明和元年
- 米沢藩の次期藩主・上杉治憲の師となる。
- 1767年 明和4年
- 上杉治憲が第9代藩主となる。
- 1770年 明和7年
- 高山彦九郎、平洲に入門する。
- 1771年 明和8年
- 米沢へ行き、講義をする。
- 1781年 天明元年
- 尾張藩主・徳川宗睦に講義をする。八柱神社(東海市荒尾町・市指定文化財)に、灯籠を寄進する。
- 1783年 天明3年
- 尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となる。藩内の横須賀村などの地域を回って講話をする。
- 1786年 天明6年
- 人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立される。
- 1792年 寛政4年
- 明倫堂の督学を辞任。
- 1796年 寛政8年
- 米沢に行く。上杉治憲が米沢郊外の関根まで出迎え、普門院で久し振りの歓談をする。
- 1801年 享和元年
- 6月29日、74歳で平洲没す。東京浅草・天嶽院に埋葬される。
- 1807年 文化4年
- 神明社境内に、「平洲先生旧里碑」を建立。
- 1808年 文化5年
- 上杉治憲「嚶鳴館遺稿」を刊行する。
- 1835年 天保6年
- 「嚶鳴館遺草」が刊行される。
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