東海市の文化財6

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ページ番号1005623  更新日 2023年2月21日

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カブト山古墳跡

写真:カブト山古墳跡

カブト山古墳跡(かぶとやまこふんあと)・市指定史跡/名和町欠下

カブト山古墳は、名和町欠下にあった円墳です。築かれたのは古墳時代前期と推定されます。直径は南北約43m、東西約49m、高さ約4.5mもあったとされていて、標高約20mの丘陵上に築かれた巨大な姿は、当時の人も目を見張ったのではと思います。だれが葬られていたかは明らかではありませんが、これほどの古墳を築かせるだけの力をもったこの地方の権力者であることは間違いありません。明治13年に土地所有者によって発掘され、古墳内部の様子が当時の記録に残されています。それによると、墳頂付近に粘土におおわれた棺を納める施設があり、内側には朱が塗られ、床には小石が敷き詰められてあったとのことです。また、中には銅鏡、管玉(約150個)、石釧(いしくしろ・腕輪のこと)、石製容器、鉄刀などが置かれていたということです。当時の先進技術と文化の粋を結集し、また、当地域最古の古墳として注目されたカブト山古墳ですが、残念なことに現在は残っていません。

丸根古墳跡

写真:丸根古墳跡

丸根古墳跡(まるねこふんあと)・市指定史跡/荒尾町丸根

荒尾町にある中央図書館北側の一角、丸根の丘陵中腹に古墳がありました。明治初期に発掘調査がなされたと伝えられています。また、大正初めには耕作中に付近から土器が発見されましたが、古墳そのものはその後なくなってしまいました。
昭和42年に中央病院が建設されるときに、旧上野町教育委員会が付近の発掘調査をしましたが、その位置は確認できませんでした。現在は「丸根古墳跡」として、その名前を残すのみとなっています。古墳付近で発掘された土器は、およそ1,400年前の須恵器という焼き物で、杯・高杯・壺などが9点あります。

八幡社貝塚跡

写真:八幡社貝塚

八幡社貝塚(はちまんしゃかいづか)・市指定史跡/名和町姥ケ懐

名和町の県道名古屋半田線トドメキ交差点から東へ入った丘陵に八幡社があります。この社地にあったのが八幡社貝塚です。この貝塚からは弥生時代中期(約2,000年前)の土器や石鏃をはじめとして、室町時代(約500年前)にかけての土器や瓦などが出土しています。
弥生時代の人々は、この貝塚のある丘陵のあたりに住み、そこから南西に広がる平地で水田耕作をしていたと考えられます。また、浜辺で貝を掘り、野山に獣を追い、木の実や野草を集めて日々の食物にしていたことも想像できます。
これ以降、名和町は街道が交差する交通の要衝として発展し、現在に至っています。八幡社貝塚の出土品ひとつをとってみても、歴史の交差するまちとして、その歴史の深さを思うことができます。

堂ノ前貝塚跡

写真:堂ノ前貝塚跡

堂ノ前貝塚跡(どうのまえかいづかあと)・市指定史跡/名和町堂ノ前

堂ノ前貝塚は名和町の船津神社のすぐ西側にあります。地形的には、昔の海岸線に平行して南北に連なる丘陵の西(海)側のふちにあり、標高は約5mです。現在は宅地の下に埋もれていますが、付近の地層を観察すると黒い土に真っ白な貝殻の細かい破片が混じっているのが見えます。
貝塚は昔の人々が食料としてとってきた貝を食べた後、いらなくなった貝の殻を多量に捨てた結果できたものです。関東地方には、面積が約9000平方メートルを越える巨大な貝塚も確認されていますが、この地域にはそのような貝塚はなく、この堂ノ前貝塚ぐらい(約50平方メートル)の小規模なものが、海岸線に沿って点在してたのではと考えられています。
この貝塚からは、ハイガイ・サルボウ・カキ・シオフキなどを中心とする貝類のほかに縄文時代晩期(約2500年前)から江戸時代までの多種多様な土器や陶磁器、石器類などが発見されています。これらのものから、このあたりに海を眺めて暮らしてきた人々の生活の一端をうかがい知ることができます。

松崎遺跡

写真:松崎遺跡

松崎遺跡(まつさきいせき)・市指定史跡/大田町松崎

松崎遺跡は、名鉄常滑線太田川駅の北方約800メートルの砂の丘の上にある古墳時代後期から平安時代後期の塩づくりに関係した遺跡です。
昭和51年の東海市教育委員会による発掘調査で製塩遺構及び多量の土器が出土し、知多半島有数の製塩遺跡として注目されてきました。昭和63年12月から翌年3月にかけて愛知県埋蔵文化財センターが主体となった発掘調査では、奈良から平安時代にかけての数十回に及ぶ塩づくりのあとを示す厚い炭化物や灰などの堆積層を確認し、その中から多くの製塩土器(塩づくりに使用した土器)が出土しています。また、古墳時代後期から平安時代後期までの各時期の貝塚(層)が数か所確認され、数十種類の貝類や土器・鉄器・人骨及び獣や魚の骨などが出土し、当時の日常生活を知るよい資料となっています。
松崎遺跡は、製塩土器の出土量の多さや約600年間という塩づくりをした期間の長さ、生産区域の広さから、知多における古代の塩づくりの中心的な存在であったと考えられます。

柳ケ坪遺跡

写真:柳ケ坪遺跡

柳ケ坪遺跡(やながつぼいせき)・市指定史跡/高横須賀町柳ケ坪

柳ケ坪遺跡は高横須賀町から知多市八幡に広がる海岸平地の砂堆(海の波や潮流によって形成された砂浜が成長した微高地)の上に立地しており、知多半島では代表的な弥生時代の遺跡の一つです。この遺跡付近に、約1900年前、人々が住みつき、この地方の水田農業の発祥地と考えられています。出土品としては、弥生中期から後期に続く多くの土器類のほか、石鏃や片刃石斧などの石器も発見されています。
なお、昭和44年の発掘調査のとき、ほぼ完全な形の人骨が発見されました。これは中世(7~14世紀)のものと推定され、18歳から20歳ぐらいのきゃしゃな体格の女性と鑑定されています。

岩屋口古墳

写真:岩屋口古墳

岩屋口古墳(いわやぐちこふん)・市指定史跡/高横須賀町岩屋口

岩屋口古墳は高横須賀町にある丘陵地の斜面に位置し、知多半島で最大規模の横穴式石室を持った古墳です。石室の大きさは、長さ8.4メートル、幅1.7メートル、高さ2.1メートルです。奥の壁には高さ1.6メートルにもなる大きな石を立て、横の壁や天井も巨大な石によって築かれています。
この古墳は6世紀の終わり頃、大化の改新前後(約1300年前)のものであろうと考えられています。中世のころにすでに盗掘されていて、副葬品などの埋葬状態は明らかではありませんが、巨大な石を使った立派な石室遺構は、その背景にある生産力や族長の威力を知ることができます。また、前面に中ノ池を望み、西方に条里制遺構(古代に区画した水田などの名残)を残す水田地帯を見下ろす立地は、西知多の王者のお墓にふさわしいものといえるでしょう。

細井平洲先生旧里碑

写真:細井平洲先生旧里碑

細井平洲先生旧里碑(ほそいへいしゅうせんせいきゅうりひ)・市指定史跡/荒尾町蜂ケ尻

細井平洲が亨和(きょうわ)元年(1801年)に亡くなると、尾張の門人らが総力を結集して、平洲をたたえたこの碑を故郷の平島村を見渡す丘陵の上に建てました。表題は、平洲と親交のあった木曽福島の代官山村伊勢守蘇門(そもん)が書き、秦鼎(はたかなえ)らの考えた碑文を平洲の援助者であった名古屋の医師伊藤玄沢(いとうげんたく)の子で、書にたくみであった伊藤墨海(いとうぼっかい)が書きました。

正法塚

写真:正法塚

正法塚(しょうほうづか)・市指定史跡/富木島町西才道

平安時代末期の僧で、融通念仏宗(ゆうづうねんぶつしゅう)の開祖、聖応大師・良忍上人(りょうにんしょうにん・1072年~1132年)のご廟です。富田村の領主だった良忍上人の父、藤原道武(ふじわらみちたけ)は上人に感化され修行に励み、現在の正法塚の前に寺を建てて融通念仏道場とし、裏山を先祖の墓所としたのが正法塚です。その後、寺は移転され、正法塚だけが残りました。かつては十数基の塔があったといわれていますが、現在は3基です。

浜新田遺跡

写真:浜新田遺跡

浜新田遺跡(はましんでんいせき):市指定/大田町川北新田

浜新田は、寛永3年(1750年)に大里村(現在の大田町)が築造した干拓新田です。大田川の右岸にあり、面積は約0.14です。
この新田の土地改良事業に伴い、平成4年に発掘調査をしたところ、新田の排水をする圦(いり・樋門のこと)が見つかりました。この圦遺構は、断面が四角形で上下左右の四方を幅20cmの花崗岩の石材によって組み立てられており、その規模は全長18.1m、高さ0.85m、幅1.2m、(内法は高さ0.5m、幅0.8m)です。かつて海に面した側のほぼ半分の天井部分が削られて破壊されていますが、全体の構造を知ることはできます。基礎部分には松の大木の角材を引きつめ、海側の石の戸は潮が満ちてくると閉まり、引くと開く仕組みになっていたとみられ、また、石と石のすき間にはしっくい状のものをつめて水がもれにくくするなど実に精巧な技術によって築かれており、新田築造の歴史及び近世土木技術を知る上で貴重な遺構です。現在は埋め戻されています。

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