講演会「今、平洲先生に学ぶ」

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ページ番号1004500  更新日 2023年2月20日

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「今、平洲先生に学ぶ」童門冬二氏講演会

  • 日時:平成17年12月2日(金曜日) 午後6時~午後7時30分
  • 場所:東海市立文化センター
写真:講演の様子
平洲記念館名誉館長・童門冬二氏講演

「恕の精神」とEQ運動

私は、現代に活きる平洲先生の教え、すなわち「平洲スピリット」とは、「日本人の心」であり、その「日本の心」とは、「恕<じょ>の精神」に他ならないと考えています。
「恕」とは、孔子が『論語』の中で、「其恕乎<それじょか>」(そういうことを恕と言うんだよ)と言っている「恕」で、「許す」という意味です。しかし、単純に許す、許さないという話ではなく、「どれだけ自分が相手の立場に立って物事を考えることができるか」「自分の持っているやさしさ、思いやり、温もりの量の多いこと」という精神が「恕」には込められています。
細井平洲先生も、あらゆる場において「恕の精神」を説かれておられます。平洲先生は、米沢の上杉鷹山<ようざん>公をはじめ、尾張の徳川宗睦<むねちか>公、人吉<ひとよし>の相良長寛<さがらながひろ>公や、伊予西条藩主時代から平洲先生を師と仰いでいた紀伊<きい>の徳川治貞<はるさだ>公など、各地の藩主たちに、「治める立場に立つ人は必ず『恕』の精神を持ちなさい」「政治家はいつも、国民の親でなければいけない、『民<たみ>の父母』になりなさい」と説かれておられます。
現代においても、あらゆる意味で、この「恕の精神」が一番大事なことではないかと私は考えています。
最近アメリカで盛んになってきた、「EQ(Emotional Intelligence Quotient)」という一つの社会運動もそのひとつの表れです。
EQはIQ(知能指数)に対する反省から生まれたものです。確かに、IQは必要な指標ですが、それがあまりに行き過ぎた結果、差値社会を生み出してしまいました。その偏差値社会というのは、子供たちに、二点間の最短距離を結ぶという生き方を教養する結果になってしまっています。
たとえば、現代の学校です。親も子供たちも先生たちの言うことを聞くのではなくて、塾の先生の言うことを聞く、すなわち偏差値という数値資料で目指す学校へ到達するための最短距離の方法を教えてくれる塾の情報を最良のものとして選択していると言います。また一方で、学校側は、少子化に対応して生徒を集めなければならないから、「修学旅行は沖縄へ行きますよ」とか「運動部にはこんな良いコーチがいますよ」とか、オマケで子供を釣っているという状況です。
そういう中で育てられた子供がどのような大人になっていくのだろうと考えると恐ろしいものがあります。人のことなど考えず自分のことしか考えない人間、他人に対するやさしさ、思いやり、ぬくもりといった気持ちが持てない、いや持ちたくない人間が育っていくのではないか?このような偏差値社会という狭い枠の中で精一杯生きていくためには、そういう人間にならざるを得ないのではないか。
EQという運動は、そのような風潮を反省して、家庭や学校、職場、地域社会に、「心の指数」を持ち込むことにより、行き過ぎた偏差値社会を是正していこうという運動です。
EQは心の指数ですから、最初は簡単な質問から入って質問内容を深めていくことにより、指数を確かめていきます。例えば家庭での場合だと次のようになります。

質問1 「あなたはいつもお子さんの立場に立ってしつけを考えていますか?」
答え 「そう務めています」
質問2 「それでは、あなたはお子さんのニーズ、こんなものが欲しい、こうあって欲しいという要求を把握していますか?」
答え 「把握しているつもりです」
質問3 「全部、お与えになっていますか」
答え 「いいえ。与えていません」
質問4 「なぜですか?」
答え 「うちの子供は小学校の高学年です。今、欲しがっているものは携帯電話です。しかし、よほどの事情がないかぎり私は、小学校の高学年に携帯電話を与えるべきではないと考えています。ですから、高校生になったら買ってあげるからそれまで待ちなさいと言っています」
質問5 「お子さんはそれで納得しますか?」
答え 「しません。クソ婆<ばばあ>、クソ親父<おやじ>と子供らしくない言葉で親をなじり、すねてしまいます」
質問6 「では、どうしますか」
答え「子供にこう言われたとき、『農民が土を耕すのは、農民が持っている徳を鍬<くわ>を通して土に伝えることである』という二宮金次郎のエピソードを思い出しました。農民の徳が鍬という媒体を通じて土に伝えられると、土の方も徳を持っているから、伝えられた農民の徳に対して、土には報徳の気持ちが生まれ、土は、農民が蒔いた種を立派な農作物として育てて、農民にお返ししようという気持ちになるというのです。
二宮金次郎が偉いのは、こんなところを耕しても無駄だという荒れ地にまで同じ気持ちで接したことです。二宮金次郎は、荒れ地は相当深いところか、もしくは常識では考えられないところに、その地の徳があるに違いないと、時間をかけ、根気強く愛情を注いで、荒れ地を耕し徳を掘り起こしていったといいます。
これを思い出しました。うちの子供が、聞き分けが悪いというのは、きっと荒れ地だからです。しかし、私が生んだ子供ですから、荒れ地だといって見放すことはできません。二宮金次郎と同じように、納得するまで掘り続けます。本人が自覚して『わかった、お母さん高校まで待つよ』と自覚するまで説得し続けます。そうでなければ、この子の親としての資格を欠きます。この子に対する愛情を自分が持っていないことになりますから」
結論 「あなたは立派な親で、心の指数が非常に高いですね。答えは満点ですよ」

とこんな具合になるのです。
これでお判りいただけると思いますが、EQというのは、何も、今、この時代にアメリカで生まれた新しい考え方ではなく、日本の社会に延々と引き継がれてきた「恕の精神」に他なりません。その精神を平洲先生も二百年前に説かれ、その平洲先生の教えを受けた上杉鷹山を始めとする名君たちが実践して藩政を行なっていました。その事実を、現代の日本人は忘れてしまっています。私たちはそういう埋もれた宝を一人ひとりがもう一度抱いて活用していくべきなのです。

「忍びざるの心」ということ

私はいまの時代というのは、かつて日本の歴史になかった時代だと認識をしています。
一つはバブル経済が崩壊した後に、経営の面で言えば「日本式経営」というものが役に立たない、もはや捨て去るべきだという風潮になったことです。これがが良いか悪いかということを問われれば、私は、決して良くなかったという気持ちを持っております。
日本式経営にも捨て去ってはいけない良いところがいっぱいあるわけです。これは、アメリカの経営評論家であるドラッカーやハーバード大学で社会学を担当してるエズラ・ボーゲルたちも言っていることです。
たとえば、日本では今でも、「うちの会社」「うちの社長」「うちの製品」と「うちの」という表現を普通に使います。「うちの」というのは働き手全員が組織単位に一艘の船に乗っていることを表す表現です。社長なり店の主人は船長さんで、それぞれの職責に応じてオールを握って、この船をある岸に向かって漕いでいく。そして、その岸辺とは「お客様のため」という考え方であり、行政で言えば「住民のため」という考え方です。
「こんな考え方を標榜<ひょうぼう>し、働いている民族が世界のどこにいるんですか。日本だけですよ。そんな美しい労働慣行を持っていることに日本人はもっと胸を張って欲しい。我々から見たらまことにうらやましく真似をしたいくらいだ」と、ドラッカーたちは言っています。
この「日本式経営」の根本にあるのも「恕の精神」です。さらに言えば、それは、孔子より二、三百年後の孟子の「忍<しの>びざるの心」――他人の悲しみ、苦しみを見るに忍びないという心――に通じていきます。川のほとりを歩いていたら、お年寄りが落ちかかっていた。これを見たときに衝動的に「助けなきゃ危ない」と駆けだしていくのが「忍びざるの心」です。落ちかかっている人の身になって考えるから、救わなきゃいけないという気持ちが起こる。恕と同じであり、そのような心を、みんな持っているわけです。

グローカリズム・下克上<げこくじょう>・ITの発達

バブル経済の崩壊を日本の歴史になぞらえるとすると、私は二つの時代にあたると思っています。
一つは、室町時代末期の応仁<おうにん>の乱の時代です。応仁の乱の後訪れたのは戦国時代で、戦国時代の風潮というのは、言うまでもなく下克上<げこくじょう>――下が上に勝つ、あるいは下が上を越える――という時代です。ですから、この「下克上」が現代日本の一つの様相だといえます。
もう一つは、幕末開国時代のグローバル化の時代です。
そして、そのグローバル化を地域と結びつけて「グローカリズム」という発想が生まれました。「グローカリズム」とは「グローバル」と「ローカル」を合せた言葉で、物事をグローバルに見てナショナルな問題意識を失わず、ローカルに生きていくと、こういうことであります。国際的な視野を捨てず、日本全体の動きというものをとらえながら、そのなかにおける、我が地域、我が店、我が企業のあり方を考え探っていこうということです。
このように歴史の視点で見ると、現代という時代は、「下克上」と「グローカリズム」がキーワードになりますが、さらに、現代を説くキーワードとして、「ITの発達」ということがあります。ITの発達は人間の意識を革命的に変えてしまいました。
私たちはある行動を起こす場合、(1)情報を集め、(2)その情報をバラバラに分析して、(3)中に潜んでいる問題点をつまみ出して、(4)いくつかの解決法を探り、選択肢として並べる。そして、(5)その選択肢から一つを選び取る決断をして実行する。(7)うまくいかない場合は、選択肢を並べ替えして、次善のものを選んで、修正、ローリングをし、(8)結果的にはそれに対して評価をする。こういう動きをたどるわけです。
ところがITの発達によって、(1)情報を集める、(2)分析する、(3)問題点を取り出す、(4)考えて選択肢を並べてみるということまではコンピュータがやってくれる。そして、今までわれわれが費やしてきた、(1)から(4)までのプロセスに対する時間とエネルギーが自分のものになったわけです。
その自分のものになった時間とエネルギーを、他人の立場に立ち、社会に対する貢献に使っていけば世の中は非常に豊かになる。ところが多くの人はそうではなくて、余った時間とエネルギーを自分の利権と欲望をさらに満足させるためにだけ使ってしまう。そして、大人はいうに及ばず、子供にいたるまで個人における利権形成能力が異常に高まってしまたのです。江戸時代の下町言葉で言うと、「ガキから大人までうるせえ人間がいっぱい増えちゃった」ということになりました。

「らしさ」の必要な時代

ITが発達して人の意識を変える。幕末開国時代のようにグローバリズムを求められているが、基調としては下克上、つまり戦国風潮が蔓延し、日本の美風や、マニュアル、ルールなどが破れてしまいますと、自然と、「選ぶ」という傾向が非常に強くなってきます。そして、「親が学校を選ぶ」「部下が上司を選ぶ」という大人の世界だけでなく、「子どもが先生を選ぶ」「子どもが親を選ぶ」といった状況にまでなってしまっているというのが現代の日本社会です。
そういう時代になりますと、今度は、選ばれる側が何かの対応をしなければいけないということになります。そして、その「何か」とは、相手に「なら」と言わせる、「らしさ」を持つということに他なりません。
企業経営で言えば、これは「CI」になります。会社のマーク、デザインなどもさることながら、「この品物ならあの会社のものが一番いい」「このサービスならあの店が一番信用できる」といったようなことです。これが、人間にも必要なわけです。「うちのお父さんは余計なことは言わないけれど、後ろ姿で学んじゃう。うちのお母さんは口やかましいけれども、絶対に間違ってない。時に腹が立つけれども、お母さんの言うことなら間違いない。二人を僕は尊敬しているよ」と子どもに言わしめる力が必要になってくる。つまり、企業経営における品物やサービスに対して「らしさ」を付与するのと同じことを、一人ひとりの人間にも付与しなければならないのです。
少し余談になりますが、今、色々な自治体が努力している生涯学習の目的も一人ひとりが「らしさ」を生むことだろうと思います。「らしさ」というのは個人個人違った固有のものですが、必ず他人によい影響を与えます。そして、他人からもよい影響を受ける。それがフィードバックし相乗効果を起こして、個人を豊かにするとともに地域社会を豊かにしていく。これは町づくりの根本です。互いに相手の立場に立って、良いところを発見し合い、同時にまた悪いところを是正し合うというのも、「恕の精神」です。

ある禅僧から学んだこと

さて、人間における「らしさ」のことを「風度<ふうど>」といいます。先ほど言いました、お父さんの後ろ姿で学ぶとか、お母さんの言葉の正しさから学ぶとかということは、お母さん、お父さんの「風度」が高いからです。会社の場合だと、「うちの社長が絶対に信頼できる」「うちの部長に頼まれたら俺超過勤務でも残業代なんかいらない」というのもそうです。昔で言うところの「人生意気に感ず」「あうんの呼吸」「以心伝心<いしんでんしん>」です。私は、これも、「うちの思想」の、いわゆる日本式経営の良さで、これは自信を持って続けるべきではないのかなと思います。
余談になります。
私は都庁で企画調整局長を務めましたが、その頃、企画調整局だけでも三百人いました。その三百人の部下を僕は三通りに分けていました。(1)言わなくてもわかる部下、(2)言えばすぐわかる部下、(3)いくら言ってもわからない部下の三つです。私も人間ですから、好きな人と嫌いな人もいるわけです。そして、たとえば、好きな部下が決済文書を持ってくると、「お前の言う通りでいいよ。それより有楽町のガード下で六時に待ってろ。呑もう、おごってやるから。仲間呼んでこい」って、ボーンとハン押しちゃう。ところが、逆に、馬が合わないというか、嫌いで、いくら言ってもわからない人とはどうしても同じ屋根の下で暮らせない。それで、お引取り願ったというか、異動させて人生の軌道を変えてしまった人も沢山いて、今でも、そのような人たちのことを時々、自責の念とともに思い出しては、夜な夜な一人で苦しんでいます。
それで、ある時、懇意の禅僧に相談しました。すると禅僧が、「一期一会<いちごいちえ>という言葉を知っているか?」と聞くのです。「知っています」と答えると、
「どういう理解をしている?」
「一期<いちご>というのは人が生まれてから死ぬまでの一生・生涯、一会<いちえ>というのはその一生にたった一度しか会えない人、あるいは機会、チャンス、こう理解しています」
「つまんないね。どっかの本を読んで真似しているだけじゃないか。そんなもんじゃないよ」
「ちがうんですか?」
「ちがう。朝、たとえば会社に行って、おはようございますと言った相手がどんなに顔馴染みでお前の言う嫌いな相手であっても、そのとき初めてこの人と会ったんだなというフレッシュな出会いを感じる。これが一つ。二つ目は夕暮れに仕事が終って、さようなら、お疲れ様と言うとき、もう二度と会えないかもしれないと思いなさい。つまり朝はフレッシュな出会い、夕暮れの別れは緊張感をもった別れ。そして、緊張感を持った別れから逆算した朝のフレッシュな出会いという意識があれば、勤務時間中の八時間かそこらの間には必ずお前だって三通りの人に出会っていることがわかるはずだよ。(1)学べる人、(2)語れる人、(3)学ばせる人の三通りだ。学べる人というのは師、語れる人というのは友、そして学ばせる人というのは後輩とか部下とか子どもとか、こういう人。しかもその関係は、固定的ではなくて始終移動する。たとえば今年採用したばかりの若い職員が職場に駆け込んできて、『出勤の電車でこういう経験をしました。これは課長がかねてからおっしゃっていた、我が社の危機のケーススタディになるんじゃないですか』と言ってお前を感心させたとする。このときの課長は、新規採用の社員を指導する立場でなくて、教えを受ける立場になっている。上下関係がひっくり返っている。こんなことは、八時間の間にいろんなケースがあるだろう。それが本当の一期一会だよ」と、こう言われました。そして、「お前は考えが足りない。だから死ぬまで苦しみなさい。はい、お終い」と、こういうことです。局長になったとき、この禅僧の言うような気持ちがあったらなと、つくづく思いました。しかし、後悔先に立たずで、これは死ぬまで苦しまなきゃいけないと思っています。

「いかに伝えるか」という工夫

閑話休題。「風度」の話に戻りますと、細井平洲先生という人は風度が高く、「らしさ」を常に発揮なさっていた方だと思います。
その平洲先生から学ぶところが多くあるのですが、作家ということでいいますと、まず私は、表現が非常にやさしくわかりやすい、ということを、学んでいます。
平洲先生は、学者ですから当然、学説はお持ちです。しかし、「学<がく>、思<し>、行<こう>相須<あいま>って良となす」という先生の言葉にもある通り、学説というものが机の上のものだけであったら何の意味も持たない。いくら学んでも、考えて、思って、行なわなければ、生きた学問ではない、と平洲先生は考えておられました。そして、学者としての自分の考え方を聞いた人が、その考え方をもとに、今度は自分なりに考えて意見を持ち、行動に移すことによって、初めて自分の学問が本物だということになると考えられたわけです。
そのために、平洲先生は、漫才、講釈、手品、居合い抜き、ガマの油売りなど大道芸能を披露している隅田川・両国橋たもとの「青空劇場」とでもいうべきところに躍り込み、辻説法を始めたのです。当然、初めのうちは、「変わった野郎が来やがったな。なにも学者がこんなところへ来て講義することねえだろう」と冷たい目で見られます。ところが、やがて状況が変わってきて、見物人の量、数が一番多くなりました。しかも、先生の講義が終わるとほとんどの人が拳を手に当て泣いているのです。それだけ、わかりやすい話のなかに感動があったわけです。ハートからハートに伝わるものがあった。それは、細井先生に本来、高い「風度」があったのに加えて、先生が「恕の精神」を発揮して、聞く側の立場に立って自分の話を組み立てていかれたからです。すなわち、聞く人へのメッセージがあり、それを伝える表現があった。つまり、「何を」だけではなくて、「いかに」という工夫があったのです。
私は学校の校長先生の前で講演することもしばしばあるのですが、その時にいつも、「同じ内容の言葉を子どもたちに伝えても、A先生のときには子どもたちはきちんと聞いていた。ところがB先生が同じことを話したときに、ガヤガヤ私語をしたり床を踏みならしたりブーイングが起ってくる。このような場合、私は、B先生が悪いと思います。話し方に工夫をしていないからです。つまり、何を、いかに伝えるかの『いかに』というところを軽視しておいでだから子どもたちが『聞かない』、いや子どもたちには『聞こえない』のです。いい内容を子どもたちに伝えようと思えば、聞く子ども側に立たなければ、『恕の精神』を持たなければだめじゃないんですか。そのことを念等において話法や教育法も勉強して下さい」と、お願いをしているわけですけれど、学校の先生だけではなく、このことは大事なことだと思います。

吉田松陰と平洲先生

さて、細井平洲先生の『嚶鳴館遺草<おうめいかんいそう>』は上杉鷹山公に対しての藩政改革のテキストだといわれいます。ところが、この本を幕末に読んで、これこそ国家改革のテキストであると太鼓判を押した人が二人います。一人が吉田松陰、もう一人が西郷隆盛です。
ご存知のように吉田松陰は松下村塾<しょうかそんじゅく>を主宰した人です。松陰が塾で教えたのは、わずか一年三カ月に過ぎません。にもかかわらず、高杉晋作<たかすぎしんさく>、桂小五郎<かつらこごろう>、伊藤博文<いとうひろふみ>、井上馨<いのうえかおる>、山県狂介<やまがたきょうすけ>(=山県有朋<ありとも>)、久坂玄瑞<くさかげんずい>など、幕末維新の傑物を次々と輩出させました。
わずか一年余りの教育期間にそれだけの人材を吉田松陰が育て得たのは、松陰が『嚶鳴館遺草』から「恕の精神」と同時に「細井先生の教育方法」を学んだからに他なりません。
吉田松陰はこの書を読んで感動しました。そして、まず松下村塾から変革しなければいけないと感じました。松下村塾は、おじさんの久保五郎左衛門<くぼごろうざえもん>が作った私塾ですが、当初は読み書きソロバンを教える実業学校でした。足軽の子どもだとか、身分の低い子どもたちが通ってきて、読み書きソロバンを習って、身につけた上で、その後の就職に役立たせようという実業学校だったわけです。松陰はそれに満足しませんでした。
松陰は熱烈な尊王攘夷論者です。しかし、偏狭な右翼でも何でもありません。彼はさっき申し上げた「グローカリズム」をきちんと押えた上で、最終的に攘夷論に落ち着いているのです。
松陰の先生は佐久間象山<さくましょうざん>です。象山のふるさと、長野県の松代に行くと、生家の前に「ぞうざん」という二百メートルの山があり、彼はその山の名を号にしてるので「ぞうざん」と呼ぶのが正しいと言いますが、その松代の象山神社の碑に、「私は二十才にして長野県人であることを知った。三十才で日本国民であることを知った。四十才で世界人、国際人であることを知った」と書いてあります。これはグローカリズムの先取りです。つまり、日本人はどこに住んでいようとも、結局三つの人格を持っている。現在の東海市民の皆さんもそうです。国際人であり、日本国民であり、愛知県民であり、東海市民であるということになります。
吉田松陰は佐久間象山から学んだこのグローカリズムというものを実践しました。そして、松下村塾を単なるソロバン学校ではなく、もっと国家的な志を持った学校に変えていくんだと、『松下村塾の記』を発表します。非常に熱情あふれる感動的な文章で、「この萩<はぎ>の一角にある松下村塾から長州藩を変革しよう。長州藩の変革によって日本を改革しよう。日本の改革によって世界を変えていこう」と段階的な変革思想を説き、「ここで行なう授業・教育では君たちと僕とは師弟ではない。あくまでも学友である。学問上における友である」と宣言しています。そして、テキストとして使ったのが、『飛耳長目録<ひじちょうもくろく>』です。耳を飛ばし、目を長くして世間の状況、毎日起っている事件を頭の中に収めなさいという意味で、「自分の書いたこの『飛耳長目録』は今まで自分が見聞したことのメモ帳だから、具体的に起った事件は全部書いてある。新聞で言えば三面記事の事件。これをテキストにして、机の上に置いておくから、一人ひとりがそのなかからテーマを一つ選びたまえ。そして選んだ人間を中心にみんなで討議をしよう。とくに頼みたいのは、その問題に対する解決方法を発見するときに、政治と結びつけてもらいたい。長州藩の政治、徳川幕府の政治と結びつけてもらいたい」と言い、討論の場には松陰自身も加わります。そしてお互いに学び・学ばせ、最後に師の松陰が「それはこういうことだろう」と結論を出すという方法をとっていました。
また、畑を耕して野菜を作らせ、人間の食糧の母なる大地の土の大事さや、これを耕す苦労、農民の苦労を自分自身のものにしなければいけないことを教え、また、付近の山野を跋渉したりして身体を鍛えるといことも始終やっていたわけです。
この学問、教育の方法は、いまだに江戸の私塾を嚶鳴塾――鳥が鳴き交うように互いに切磋琢磨<せっさたくま>して学び合う塾――と名づけた平洲先生の教えそのものです。

経済改革も平洲先生の教えから

結局、松下村塾から育っていった門人群が長州藩の改革に成功しますが、長州藩が行なった改革は、経済改革でした。
当時の藩大名家はいまで言う十割自治でした。つまりどんなに赤字財政になっても国家補助金も地方交付税もない。すべて自分のところで始末なさいということです。そうなりますと、それぞれの藩は、産業振興によってその資金を自分で稼がなければならない。すなわち、藩というのは商事会社であり、城に勤める武士は、地方公務員であると同時に商事会社の社員だと言えます。
ところが一方で、藩というのは幕府、将軍を守るという軍事的使命を持っています。もともと、幕府という言葉は、戦場に幕を張って占領地域の行政をいかに行なうか、あるいは作戦をどう展開するかという総司令部のことを言います。ですから徳川幕府は本来、武士が支配する軍事政府であり、幕藩体制というのは、リンカーン流に言えば、「武士の、武士のための、武士による政府」です。そして、その武士は、「武士は食わねど高楊枝<たかようじ>」と言って金銭を馬鹿にし、経済や経営を無視するという風潮にある。明治維新のときに、二百七十もあった大名家が軒並み倒れて抵抗しなかったというのは、不良債務の重みにもう耐えかねていたからです。
しかし、長州藩は、その悪しき藩幕体制のあり方を突破してしまいます。
細井平洲先生は『嚶鳴館遺草』で、藩が赤字を克服し、その後バランスシートをゼロにして生き抜いていくためには、その藩の持っている財の活用以外にない。財というのは土地であり、農民だと説いています。そして、基本的には予算原則を守らなければならない、すなわち「入<い>るを計って出<い>ずるを制し」、収入のフレームをきちんと立てて、その枠の中で支出を考えていきなさい。そのなかでもプライオリティ、施策の優先順位を立てて、重要施策から順に実行していくべきだ。その過程で民に増税を求めるならば、治者が、治める側の武士が常にお父さん、お母さんのように、子どもの身になって、その喜怒哀楽をキャッチしてなければ駄目だと、説いているのです。
吉田松陰は、その考え方を学び松下村塾での教育に利用しました。これが成功したのです。長州藩は幕末において四白<よんぱく>、ないしは三白<さんぱく>という特産物を出しました。塩、紙、蝋燭<ろうそく>、米です。そして、今でいう商事会社にあたる越荷方<こしにかた>という役所を萩城下に置きました。ここに勤めていたのが桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文、井上馨などです。極論すれば、松陰門下の人はみんな、刀を振り回すのではなく、前垂<まえだ>れ=商人になってしまった。ここが、徳川幕府を倒すまでに富を貯えていたか、あるいは時流に後<おく>れて、ただ右往左往しているかの差になっていったのです。

西郷隆盛の原点になった「民の父母」

もう一人の西郷隆盛は、若いときに郡方の書役助<かきやくたすく>という、いまの税務署の書記補のようなことをしていました。ところが勤めた郡奉行所<ぶぎょうしょ>では先輩役人が汚職ばっかりやっています。ある夜トイレに行ったら、牛小屋のほうから話し声が聞こえてくる。西郷を泊めてくれている下宿の主人が牛に、「長年世話になったね。明日で確定申告の期限が来る。俺は賄賂を使わなかったから、課税額がとても高くて納めきれない。悪いけれど、明日、お前を市場へ引っ張って行って売るよ。売った金で税金を納めるから堪忍してくれよ。甲斐性のない主人で悪かったな」と話しかけているのです。これを聞いて西郷はキレてしまいます。
そして、翌日、郡奉行に怒鳴り込み、「こういう実態があるのに、あなたは何をしたか。奉行というのは護民官の代表でしょう。民の父母でしょう。まったくだらしがない」と、膝<ひざ>詰め談判をします。しかし、「言うな、それは。俺もかねてから気にはしている。ただ、自分は無能力で気が弱い。そして、この汚職は構造的なものだ。つまり城にも及んでいることで、断ち切れないんだよ。だから、俺は辞任する。お前の正義感には負けたよ」と奉行は、西郷に遺言代りに歌をつくって辞任してしまいます。この時の歌が、有名な、「虫よ虫よ。五ふし草の根を絶つな。絶たばおのれも共に枯<か>れなん」というものです。「五ふし草」というのは稲のことです。虫というのは汚職をやる人間。汚職をやる人間が稲に留まるだけでなく根っこまで食いつぶしてしまうとお前だって一緒に死んじゃうぞということです。西郷は死ぬまでこれを大事にしました。
やがて島津斉彬<しまづなりあきら>という名君が出て全藩士から率直な藩政改革の意見を求めました。このとき、西郷が出した意見書の内容は不正役人の告発ばっかりでした。斉彬からは返事がこない、なしのつぶて。今度の藩主もやっぱり同じで結局正義などは通用しないんだと、西郷はがっかりしていました。
ところが、ある日、西郷は、島津斉彬に呼び出されました。そして斉彬に言われます。
「意見書は全部読んだぞ。お前は馬鹿だ」
「馬鹿とは何ですか」
「馬鹿だから馬鹿だ。お前はいま薩摩藩の蛙<かわず>にすぎない。薩摩藩という小さな池の蛙だ。日本の蛙になぜならない。世界の蛙になぜならないんだ。俺について来い」と。その日から師匠です。斉彬にすれば、木訥<ぼくとつ>であり、考えていることは小さいけど、根っこにある西郷の社会正義感は絶対に贋物<>でない、重用しようということでした。
その斉彬のもとで西郷は世界に目を開かれます。グローカリズムを身につけます。しかし、その斉彬が急死してしまいます。後を継いで実権を握った弟の久光<ひさみつ>と西郷とはそりが合わない。西郷も嫌いで、久光に面と向かって、「斉彬様は立派でしたが、あなたは全然駄目です」と言ってのける。こんなことを言われれば誰だってカチンと頭にくる。西郷は島流しになる。沖永良部島<おきのえらぶ>へ流された。その島に立木があって、西郷は、木剣を持って「久光の野郎、久光の野郎」と毎日叩く。島の人間も恐れをなして寄りつかない。
このとき、川口雪蓬<かわぐちせっぽう>という、西郷より先に流されていた藩の学者が近づいてきました。この人は酒癖が悪くて、結局はお城で学者をしていましたが、藩の備品である備え付けの図書を売っては酒を飲んでいたことが発覚して島流しになっていた。
「西郷さんは正義感が非常に強いと聞いている。しかし、そんなことをしていたって駄目だね。毎日久光、久光って。島の人間が怖がっている。あなたもここにいる以上は島の人ともっと仲良くしなさい。それには島の人の生活をつぶさに見ることです」と言い、「ものすごく大事な本だけど貸してあげるよ」と、一冊の本を貸してくれたのが『嚶鳴館遺草』でした。そこで初めて、西郷は細井平洲という人の名を知り、遺草に書いてあった「護民官は民の父母でなければいけない」ということに、目覚めたのです。
西郷は、子どもを呼んで塾を開き、字を教えました。大人たちも寄ってきて実態を訴えるようになりました。西郷はその大人たちの声の聞き役になり、媒介役として藩の役人が来る度にこの島の窮状、ひどい有り様を伝えました。
一方で、「あの人がいなければどうにもならない」という薩摩藩の誠忠組<せいちゅうぐみ>という青年グループが嘆願運動を起こして、西郷は再び鹿児島に呼び戻されます。西郷隆盛の人望・風度から発した若者たちや藩内の世論には、暴君の久光も抑えることができなかったのです。やがて、西郷が国を憂える志士として活躍をし、やがて大久保一蔵とともに倒幕の最先端に立っていきますが、そのきっかけが『嚶鳴館遺草』との出会いだったのです。
西郷が明治西南の役で明治十年に乱を起こすまでの彼の思想は、あくまでも農民と土を大事にしていこうという思想です。農民こそがいわゆる国の宝で、ここからすべてが始まるのだという気概を最後まで持っていました。
* * *
上杉鷹山をはじめとする平洲先生と同時代の藩主たちや、ここで紹介した吉田松影、西郷隆盛の例などを考えますと、細井先生の教えは、二百年以上も前から、全国のいろんなところで定着し、それを活用し、生かして、ついには国政変革にまで影響を与えていたという事実がわかります。
その平洲先生のふるさとは東海市であり、先ほど申し上げました「EQ」「恕の精神」「日本の心」といった「平洲スピリット」のふるさと・発信源もまた、東海市です。そのことに東海市の民さんは、大きな誇りと自信を持っていいことです。
そして、この先達の志、あるいは恕の精神、すなわちヒューマニズム、人間の気持を持って、毎日暮らしていただきたい。そういう宝物を持っているということに誇りを持ち、東海市の皆さん一人ひとりが、今度は、その発信源におなりいただければ、こんなうれしいことはありません。ご静聴ありがとうございました。

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