講演会「生き方の指針となる平洲先生のことば」

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ページ番号1004501  更新日 2023年2月20日

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「生き方の指針となる平洲先生のことば」童門冬二氏講演会

  • 日時:平成18年5月29日(月曜日) 午前11時30分~午後0時30分
  • 場所:西方寺
写真:講演の様子
平洲記念館名誉館長・童門冬二氏講演

「生き方の指針となる平洲先生の言葉」

ぐずついていた天気も落ち着きまして、暑さの中、ここ西方寺〈さいほうじ〉の本堂の床が抜けるばかりに、たくさんの皆さまにお運びいただき光栄でございます。米沢からは、安部三十郎市長さんはじめ、三十人近い方がわざわざおいでいただき、本当にありがとうございます。
私が上杉鷹山の話を最初に書いたのは「山形新聞」で、一年連載という話で始めたんですが、評判が良かったのか、「連載でみんな泣いているよ、一年の約束だけど、もう一年やれないか」ということで二年間連載をさせていただきました。もう三十年ぐらい前のことです。
当時、東北へ集まる観光客はお祭り目当てでございましてね。青森のねぶたが終わると秋田の竿燈<かんとう>、それから山形を素通りして仙台の七夕祭りに行く。そこへ、強引なねじ込みだと思うんですけれども、山形の花笠音頭というのが入ってきて、いま完全に定着いたしましてね、東北四大祭りということになって、私もたいへん嬉しい思いをしているわけでございますけれども、そういうところから、わざわざ東海市へお出ましいただくということは、たいへんありがたいことで、細井平洲先生もさぞお喜びになっておられるんではなかろうかと思います。
さて、その山形の上杉鷹山公ですが、単なる財政上に生じている赤字、つまりバランスシートに出ている赤字を消すだけだったら、意味がない。前代のバブル経済時代に、日本中の人が悪い後遺症を残しちゃった。どういうことかというと、自分さえ良ければいい、人のことを全然思いやらないというように、心のほうにも大きな赤字が出ているんではなかろうかということで、藩政改革に取り組んだわけですね。米沢藩のバランスシートに生じている赤字をゼロにするのは当然のこと、同時に米沢を出発点にして、当時の日本の国民の「心の赤字」を解消したい。そして、人のことを思いやる優しさとか思いやりといったものを強く持って欲しいということでございますね。
結果として、随分時間がかかりましたけれども、この改革は成功しました。そして、たとえば、「棒杭の商い」というのが生まれまして、どんな僻地にあっても、棒杭を立てて値段表さえつけておけば、売る人がいる必要はない。下にどんな高い品物を並べていても、だれもごまかさない。後で精算しますと、ピタリ御名算。一文の狂いもなかった。それほど、人々の心に温かさ、優しさが蘇っていた。こういうエピソードが残っております。
そのことがきっかけになって、後に起こった天明の大飢饉のときにも、ほかの藩では悲惨な目にあいましたけれども、米沢藩では死者が一人も出なかった。町々、村々と地域ごとに人々が心を持って、義倉というんですが、災害に備えて食料と最小限の生活日用品を保管をしておいて、災害が来たとき、扉を開いてみんなで使おうということになっていたからです。これも言ってみれば、鷹山の教えが津々浦々まで染みついていた結果だという気がいたします。
その鷹山公の師が、言うまでもなく細井平洲先生でありまして、書かれたのが『嚶鳴館遺草〈おうめいかんいそう〉』です。これは、鷹山公との関わりが多く書かれたテキストですが、沖永良部島に流されていた西郷隆盛もこの本に出会って目覚めます。もともと、隆盛は島津久光に対して、非常な怒りを持っていました。しかし、その怒りはあくまでも薩摩藩という小さな池の中での怒りであり、その怒りをもつ自分は池の中の蛙〈かわず〉でしかない。日本の蛙になり、世界の蛙にならなきゃいけないと、翻然と目覚めたのが『嚶鳴館遺草』であります。この本によって、隆盛は、「敬天愛人」――天を敬い、人を愛す――と言う思想を学んだわけでございます。
また、平洲先生の七回忌に、鷹山公が命じて、漢文体遺稿として編纂されたのが『嚶鳴館遺稿〈おうめいかんいこう〉』ということになっていますが、小野重伃〈おのしげよ〉先生が『嚶鳴館遺稿注釈』(東海市教育委員会発行)という解説書を東海市教育委員会からお出しになっておられます。私の本日のお話は、この注釈書の「諸藩編」を参考に平洲先生の言葉をご紹介しながら、独〈ひと〉りよがりで牽強付会〈けんきょうふかい〉な説を唱えさせていただくということであります。

「お世話」と「恕〈じょ〉」と「忍びざるの心」

『嚶鳴館遺草』に時折出てまいります言葉に「お世話」というのがございます。
「お世話」というのは、他人のために忙しく走り回ることです。口はつむんだままで、手足をまめに動かすことだということですね。不言実行です。だれかさんのために、あるいは相手のために何かをするということにでございますね。そうなってくると、「お世話」をする方が、相手の立場というか、相手の何が不足していて何を求めておいでなのか、何をしてあげれば喜んでもらえるのかということをまずキャッチしなきゃいけない。ニーズ(需要)を掴まなければいけないわけでございます。となると、あくまで相手の立場に立って考えていこうとする姿勢が必要になってくるわけです。
あるお坊さんに聞いたことですけれども、人間というのはみんな心の中に鏡を持っているそうです。
その鏡が輝いていれば、人の悲しみや苦しみがそっくりそのまま映る。そうなると、こっち側もそれに対して、何かしてあげなきゃいけないという衝動が湧いてくる。ところが、得てして、人の悲しみとか、苦しみというのが映らない場合がある。それは、鏡が曇っているからである。なぜ曇ったか。その鏡に邪〈よこしま〉な心や欲みたいなものを被せて曇らせてしまっているからだ。だから、これを常に拭き取って、いつも心の鏡をピカピカに磨いて、人の考え方や苦しみというのがそのまま映るようにする努力をしなきゃいけない、と教えられたことがございますが、そのとおりかなという気がいたします。
つまり、「お世話」をするということは、心の鏡に映った相手のして欲しいことの面倒をみてあげるということであります。相手の気持ちを全く考えないで、こっちの独りよがりな考えに発する「お世話」は、相手からすれば「大きなお世話」ということになっちゃうわけですね。そうではなくて、喜んでもらうようなお世話をするには、こっちが無私の態度で、ゼロの心理状態になって、相手の気持ちをそっくり自分の気持ちとして受け止めることが大事だろうと思います。
いま私が申し上げたようなことを孔子〈こうし〉は、「其〈それ〉――そのことはですね――恕乎〈じょか〉」と言っています。「乎〈か〉」というのは「だよ」という意味ですから、「そのことを『恕』と言うんだよ」ということでございます。「恕」は、「ユルス」と読みますが、自分がどれだけ相手の立場になれるか、自分の持っている優しさと思いやりの量を言う言葉であります。
この「恕」を、孔子より二、三百年後に生まれた孟子〈もうし〉という人がもう少し分かり易く砕いて言葉にしました。それが、「忍びざるの心」であります。
「忍びざるの心」とは、他人の苦しみや悲しみをそのまま見るに忍びない。何とかしてあげたいという衝動を言います。心の鏡が曇っていなければ、この衝動は正しく機能する。だけど、場合によっては機能しない場合がある。孟子は、「恒産〈こうさん〉なければ恒心〈こうしん〉なし」という有名な言葉も残しています。ある程度の財産と収入がないと、恒心を持つのはなかなか難しい、機能しないということですが、それは状況を言ったのであって、真理だという意味ではないと思います。孟子が言いたかったのは、恒産があろうとなかろうと、どんな場合でも、悲しい目にあっている人、苦しい目にあった人は助けてあげて欲しいということでございますね。

永く邦域〈ほういき〉に福〈さいわい〉せん

平洲先生は上杉鷹山の米沢藩をはじめ、尾張の名古屋藩、伊予(四国)の西条藩、熊本の人吉藩とか大和の郡山藩とかいろんな藩の藩政改革にいまで言う行財政改革のテキストあるいは意見書を書いておりますし、かかわりのあった学者とか色々な要人に向けての助言書なども書いています。
その中を拝見いたしますと、人だけではなくて、たとえばコップならコップという無機物の中にも真理や真心がこもっている。なぜなら、人のために役に立ってもらいたい、喜んでもらいたいと心を込めて作った作り手の心が物の中に秘められているからである。言葉で言わないけれども、物も人もそういうものを秘めて努力をしているんだと、平洲先生は言っておられます。
例えば西条藩です。藩主松平頼謙〈よりかた〉が、満福寺というお寺につくった鐘〈かね〉の銘文と序を平洲先生が書かれたわけですが、その一番お終いに、「鐘〈かね〉の勅〈いまし〉むるところ、永く邦域〈ほういき〉に福〈さいわい〉せん」という言葉がございます。
小野先生の全文の読み下し文と訳を紹介しますと、

彼其〈かれ〉職に在りては、以〈もっ〉て朝〈あした〉し以〈もっ〉て夕〈ゆう〉べす。
進退を励翼〈れいよく〉して、厥〈そ〉の徳を失わず。
彼其〈かれ〉力を為〈もち〉いて、以〈もっ〉て動き以〈もっ〉て息〈いこ〉う。
出入〈しゅつにゅう〉し畊織〈こうしょく〉して、厥〈そ〉の食を失わず。
鐘の勅〈いまし〉むる所、永く邦域に福〈さいわい〉せん。

〈かの鐘の役目は、鳴り渡って朝を告げ、響き渡って夕べを教えることだ。
(しかし、それだけではない)。人に日常生活の節度を示し教えて、自らの教化する立場を忘れない。
そのはたらきのお陰で、人は活動し、休息する。
仕事につき、仕事をはなれ、生業に励んで、人は自らの生計をくずさない。
鐘の鳴るかぎり、永久に藩内に幸せがもたらされよう〉

ということです。鐘をつくった人がこういうことを言ったんではないと思うんですが、鐘をつくった人の気持ちを平洲先生が代弁なさっていることになります。満福寺から鳴り渡る鐘は単なる時刻を告げる意味だけではありませんよ。ここで生きている人たちが、みんなのことを互いに大事にしあって、一種の理想郷をつくる。そういう役割を一人ひとりが負っていることを示しているのですよ。藩の人々はみんな家族の一員であり、その家族は、今度は個人に戻っていく。個人の段階から子どもも大人も行ないを正しくして、周りの人々に愛される、喜ばれるようなことをしていこうではありませんか。その積み重ねがこの藩全体を幸せにしていくんです。毎日鳴り響く鐘は、言ってみれば、そのシンボルだということです。例えば、朝の鐘の音を聞いたときは、今日も頑張ろうと思うし、夕べの鐘を聞いたときは、今日一日振り返って、うん、私は今日は自分の責務というか、精一杯、いのちを完全燃焼させて、人様のために尽くしたなあというような満足感が得られたら、夕餉〈ゆうげ〉もさぞかしおいしく食べられるし、一杯の酒も本当の酔いをもたらしてくれるでしょうということではなかったかと思います。

一期一会〈いちごいちえ) 輒〈たやす〉く文士たるべからず

また、紀州・和歌山藩のことでございますが、平洲先生は江戸で、和歌山藩の北圃仲温〈きたばたけちゅうおん〉という人と知り合いました。この人は学者ですけれども、本屋さんでもありました。その仲温に関して、先生は、「未〈いま〉だ敢〈あ〉えて幡然〈はんぜん〉として以〈もっ〉て文士者〈ぶんししゃ〉たらんとせざるは、蓋〈けだ〉し、自ら其の輒〈たやす〉く以〈もっ〉て文士たるべからずと知ればなり」と、書いておられます。「あなたはたいへんに文才があるんだから、きっぱり本屋の仕事をやめて、文人・文士になりなさいよ」と勧められても、仲温さんは絶対に承知しなかった。物を書く人などにはそう軽率になってはいけない。自分にはまだ資格はない。確かに知識はあるけれども、まだまだ人間が未熟なんだ。仲温は、自分から進んで文士になってはいけないということを知らないで傲慢〈ごうまん〉にも文人になろうとした人々に比べれば、文士に対する知識もあり、同時にプロの厳しさを十分にわきまえていたという小野先生のご解説があります。
これは私にとって非常に頭の痛いというか、耳の痛い言葉であります。この言葉に出合って、私、弱っちゃいましたね。知識もない、力もねえ、資格がねえのに物書きになっちゃってるわけですから、ほんとに申し訳ないことをしちゃった。私のペンネームというのは、そういうときに使っておりましてね。そういうしだいで、ドウモンすみませんというわけでございます。
平洲先生がこの人を尊敬したのは、「本自体は何も言わないけれども、本の中には、師がおり、友だちがいる。後輩、後進も、全ている。だから、本を読んでさえおれば、自分は学ぶべき師に出会える。語れる友に出会える。場合によっては、学ばせてあげる後進にもお目にかかれるんだ」ということを仲温さんが言ってるからですね。
これは、この言葉の中には、仏教の法でいう一期一会〈いちごいちえ〉というものがあるんだなと思います。一期一会は、出会いを大事にするということでございますが、あるお坊さんにそれだけの理解ではだめだと言われたことがあります。魂と魂の出会いなんですね。無言の本の中に、学んだり、語ったり、学ばせたりしあえるということは、本を書いた人の意志がやっぱりそういうふうに込められているものを、本屋さんである仲温が感じ取っていたわけですよね。万巻の書を読んでおられたから、仲温は、自分にはその真似ができないからと、こういうことを思ったのかもしれません。

「天の理」と「人の理」 運転の利は険〈けん〉を夷〈たい〉らかにす

私が都庁で最初に課長になりましたのが三十歳のころです。都立大学、いま首都大学といいますけど、ここの理学部の事務長をやったんですよ。このとき、森脇大五郎先生といって、ショウジョウバエを素材にしながら遺伝学を教えておられた先生が理学部長をされておられました。ショウジョウバエって三日間ぐらいしか生きてないから、どんどんどんどん生まれ変わるんで、そういう研究材料になったんでしょう。
その先生が、若造の僕にこう言いました。
「君ね、理学部というのは原理を教えるところだ。そして工学部というのは応用を教えるところだよ。これは両方大事なんだ。たとえて言えば、川は美しくなければいけないと教えるのが理学部なんだ。しかし、どうすれば美しくなるか、あるいは美しく保てるか、こういうことを考えるのは工学部なんだよ。だから、理論と原理と応用、両方とも大事なんだよ」
この言葉が、ずっと頭の中にあったんですよ。
『嚶鳴館遺稿』の中に、全く同じような言葉が出てきたわけであります。それは、「舟車〈しゅうしゃ〉の用〈よう〉は地を易〈か〉うべからざれども、運転の利は険〈けん〉を夷〈たい〉らかにす」ということなんです。われわれが使う車だとか、あるいは舟というものは、天然自然の道や川を変えることはできない。川は自然のまま流れるし、深い谷、嶮〈けわ〉しい山を簡単には崩せない。ところが、車や舟といった道具を使い運転することによってスムーズに目的地に達することができるという意味です。
内村鑑三の『代表的日本人』の中に書かれている農民思想家の二宮金次郎(尊徳)も、しきりに「お世話」って言葉を使っています。私は金次郎はけっこう『嚶鳴館遺草』を読んでいたと思いますが、土の世話、豆の世話、何の世話と、お世話をすることが成果を生むことだって言うんですね。
金次郎は、天の理、人の理を唱えました。水車を例にしています。水車というのは、上流から流れてくる川の水、すなわち高いほうから低いほうへ流れる水の圧力によって力が加わって回転するわけでしょう。だけれども、もしも水車が水の中にあったならば、天の理に従ってそのまま下流に流されてしまう。
ところが、天の理に任せずに、上半身を水から出して、ここで受けた圧力をそのまま活用して回転できるようにしてあるのが水車である。この回転によって、米をつき、あるいは豆を粉にしている。これは完全に人の理ではないかというのが金次郎の思想です。
また、夏になると田んぼでは苗が伸びてきます。しかし、苗だけが伸びるだけではなくて、雑草も増えてくるわけですよね。雑草は米の滋養分を奪いますから、農民は引き抜いちゃう。草を殺すわけでしょう。天の理に基づいたら、稲も草も、生命ということにおいては何ら変わるところがないわけで、天は両方育てているわけですね。だけど、天が可愛がっていようとも、人間世界のため、米の発育を妨げるようなものは、人間は引き抜いて殺してしまう。これが人の理なんだ。だから、人間の理というのは、ときによって、天の理に背くこともあるというのが、二宮金次郎の考え方です。
つまり、技術によって、自然の険しい状況というものも、人はなめらかに切り抜けていくということですが、この金次郎より以前に、平洲先生も人の理というものを唱えておいでだったんだなあと感じました。
この言葉は、紀州和歌山藩の川合春川〈かわいしゅんせん〉という人の、『考工記図解〈こうこうきずかい〉』という中国の技術者の古い本の解説書に寄せた平洲先生の序文に出てきます。
「凡〈およ〉そ百工〈ひゃっこう〉は五材〈ござい〉を治めて以〈も〉て器〈き〉を作るなり」(そもそも、もろもろの職人は、各種の材料をうまく利用して、それぞれの器物を作るものである―小野重伃先生訳)という書き出しで始まるんですけれども、平洲先生は、この序文でモノの中に潜められた真理を一つひとつ発見しなければいけないよ。潜められた経過をものをつくる人の立場に立って、もう一度考え直してみよう。いったいこの人はどういう発想で、どういう動機でこれをつくろうとしたのかを探り当てて、広く人に伝えていくのが、学者の役割なんだと言っているんです。
理学部長から「理学部は原理を教える。工学部は応用を教える」と聞いた時に、僕は、理学部のほうが優位だという意味に取れたんです。原理、理論が先にあって、それを具体化していくのが応用の工学部なんだ。川はきれいに、常に美しくなければいけないというポリシー、理念があるものを実際に実現していく手段、手だてを考え出すのが工学部だろうと思っていたわけですよ。
ところが、平洲先生は逆ですね。すでにできあがってしまっているモノの中に潜んでいる原理を逆にたどらなきゃいけない。そこに「人間の理」があると平洲先生はおっしゃっているわけです。

「愛民」 大名も家臣も民のために存在する

西郷隆盛は「敬天愛人」と言いましたけども、平洲先生のおっしゃっていることをおしなべて考えてみると、発想の原点は「愛民」ではなかったかと思います。民を愛せる、民を愛すということでしょうか。平洲先生の時代、それぞれの国というのは藩でありますけれど、藩というのは、十割自治ですから、完全に独立した施策を立て、その施策を実現するための資金、つまり財政も、産業振興によって調達しなきゃいけない。独立しているわけですね。だから、藩は二百七十ぐらいありましたけれども、みんな自分の行政区域のことを国と言っているわけです。
平洲先生は上杉鷹山さんに、国の復興、回復する資源は、土と農民以外にいないのだから、この二つを大事にしてくださいなと説かれたわけです。そして、そのときに、藩主、あるいは為政者は、常に民の父母だという気持ちをお持ちください。たとえば、自分の子どもなら、お腹が痛くてピーピー泣いているときに、どうしてこの子泣いているんだろうと、子どもの嘆き、悲しみに手を差し伸べるじゃないですか。その子どもにすることと同じことを、民にもひろげてしてあげてください。こういうことを頼みましたね。これが『嚶鳴館遺草』の中に書かれているわけです。それが平洲先生の根本的な思想であります。
鷹山は三十五歳のときに隠居をして、上杉家の藩主であった先代の重定〈しげさだ〉さんの実子に国を譲るわけですが、その時に、『伝国〈でんこく〉の辞』――国を伝える言葉――というのを書いています。

一、国家は先祖より子孫へ伝候〈つたえそうろう〉国家にして我私すべき物にはこれ無く候。
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候。
一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候

です。意訳してしまえば、民は大名や城に勤める役人のために存在はしていない。民のために、大名と家臣が存在しているんだということです。
これは立派な主権在民の思想です。この発言があったのが一七六〇年。まだジャン=ジャック・ルソーは生まれてない。フランス革命も起こってない時代です。つまり個人的人権がどうこう以前の時代です。そんなときに、すでに主権在民の発想をなぜこの一封建大名が言ったんだろうか。そういう疑問を持ったのが、日経新聞の論説委員長も務めた評論家の大和勇三〈やまとゆうぞう〉という人です。この人が、一九六〇年代、ワシントン支局にいたんです。
あるとき、日本の新聞記者、テレビの記者が、時の大統領と非公式な会見をしました。時の大統領は、J・F・Kです。ジョン・フィッツジェラルド・ケネディです。
ケネちゃんに聞いたわけですよ。「あなたは非常に世界史にお詳しいし、またいろんな偉い人の言葉を演説なんかに引用されています。日本人でだれか、関心を持った方がおありですか?」
「一人おります」
「だれですか?」
「上杉鷹山です」
こっちは、そんな人知らねえ。
「お前、上杉鷹山、知っているか?」
「知らねえ、そんな奴」
「お前は?」
「知っている」
「だーれ、あれ?」
「上杉謙信のせがれ」
いいかげんなことばっかり言っていました。
内村鑑三が『代表的日本人』を書いたのは、明治末年のことでありまして、日本は日露戦争を起こそうとしていた。このときに、明治国家の国是は、ヨーロッパに追いつけ追い越せ。つまり工業化を急げ。同時に軍備を強化せよ。つまり富国強兵であります。内村鑑三は、ヨーロッパに追いつけ追い越せというのを悪いとは思っていないんですよ。二百七十年間の鎖国で、科学技術的には日本は立ちおくれているんだから、それを取り戻そうと一所懸命になることはいいんだ。富国もいい。国を富ますということは、富民〈ふみん〉につながる。つまり国が富めば民も富むんだから、富国富民ならかまわない。問題は強兵。こんなちっぽけな国が軍事大国になってどうすんだ。そのための工業化を急いでいるというふうに取られたら、日本人は外国から誤解されちゃうじゃないかというのが鑑三の考え方で、そこから、欧米先進国の誤解を解こうとして、『代表的日本人』というのを外人向けに英語で書いたわけです。ケネディはこの本を読んでいたんでしょうね。
鑑三は札幌農学校の二期生なんです。隣に座っていたのは『武士道』を書いた新渡戸稲造〈にとべいなぞう〉だったんですね。これを教えていたのが、校長は北海道開拓使長官、薩摩藩出身の黒田清隆〈くろだきよたか〉ですが、実際には、マサチューセッツ州から招かれたウィリアム・S・クラークという人だったわけです。黒田長官というのは、当時のつまり志士としては、珍しく英語が堪能だった。かなりナウイ人だった。招いたクラークさんは日本語なんか知りません。黒田は黒田なりに、自分で札幌農学校の校則をつくって英訳をして、クラークさんを待っていたわけです。
ところが、やってきたクラークさんに、「先生、校則、つくっておきました。あなたに便利なように英訳してありますから、ご覧ください」と見せたところ、いりませんって、捨てちゃったわけです。
「農学校、校則いらないんですか?」
「いや、校則はいります。でも、こんなに数が多かったら、学生がかわいそうです。あれやっちゃいけない、これやっちゃいけないって三十も、五十も……。だめ、こんなのは」
「どうするんですか、先生?」
「一つだけあります」
「何ですか?」
「Be gentleman(紳士たれ)。この学校の学生は紳士であって欲しい。それに尽きるんです」
クラークは一年二カ月ぐらいしか農学校にいないんですね。吉田松陰が松下村塾〈しょうかそんじゅく〉を経営していた一年三カ月と同じくらいの短い期間です。にもかかわらず、あんなにすごい人材を輩出するわけです。教育というのは、やっぱり人なんですね。クラークさんは任期を終えて去るときに、まだ鉄道がございませんから、船に乗るために馬に乗って、あるところまで送っていった学生たちに、後ろを振り向いて馬上から言いました。
「Boys be ambitious=少年よ、大志を抱け」
僕なんか小学校の頃、下手くそな字でこれを書いて、壁に貼ってあったんですよ。大志が小志になり、もっと萎〈しぼ〉んじゃってなくなっちゃうんですけど……。

宝石を散りばめたように

平洲先生の教えは、いろんな人の中に、宝石を散りばめたように生きていると、私は思っています。西郷隆盛も、吉田松陰も『嚶鳴館遺草』を使っていますが、他にもいっぱいいたに違いない。でも、負け惜しみの強い人は正直に言わなくなっちゃうんですね。「平洲先生の教えじゃない?なんか同じじゃねえか」「あ、そう? 偶然の一致だな」みたいに、ごまかしちゃうのも多かったと思います。
それはそれとして、『代表的日本人』の中に入っている中江藤樹〈なかえとうじゅ〉は、「孝」という言葉をもって世に出た人です。ところが、この「孝」を、藤樹は狭義に限定していないんです。まず親に孝を尽くせ。その後で隣家に孝を尽くせ。地域社会に孝を尽くせ。国に孝を尽くせ。世界に孝を尽くせと広げていくわけですよ。これは、平洲先生の「民の父母」と同じなんです。だから、結局は、ヒューマニズム、あるいはだれかのために何かをしようという「恕」の考え、「忍びざるの心」というのは、やはりどなたであれ優れていた人の土台になっていたんだなあという気がいたします。
毎回、講演の最後に申し上げるんですけれど、ルーマニアがまだスターリン体制下に置かれていた頃、コンスタンチン・ゲオルギウという作家がおりました。この作家が、「ほかの国の人々は、一日二十四時間だと思います。ルーマニア国民は二十五時間です。それだけ締め付けが厳しいんです。でも、私は希望を失いません」と言って、『二十五時』という小説を書きました。この一番お終いで、彼はこう書いています。「たとえ世界の終末が明日であろうとも、私は今日林檎の木を植える」これがいまの世の中で一番大事かなと思います。
今日、ここにお見えの皆様方は、それぞれ林檎の木を持っていらっしゃる。お一人おひとりが精魂込めて育てて稔ったおいしい実を惜しげもなく子どもさん、あるいは地域の人、他人に差し出していらっしゃるわけです。これがもう一つの平洲先生の教えである「譲〈じょう〉」の精神であります。この譲〈ゆず〉るという美徳を興そうと、米沢に作った学校が興譲館〈こうじょうかん〉でございますよね。この学校の設立を指導し、校名を命名したのも平洲先生です。
「恕」と「譲」、そして、「仁」。これが平洲先生の教えの根幹にあった三本柱かなと思っております。せっかくお運びいただき、お忙しい中、お時間をお割きいただいた皆様方に、お役に立てる話ができないもんですから、ペンネームでまたお詫びをして、失礼をさせていただきます。本当に今日は、ドウモンすみませんでした。

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