平洲塾193 微笑もて正義をなす 中京における文教の振興

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ページ番号1004504  更新日 2023年2月20日

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平洲先生の言葉(5) 言われたかも知れないことを含めて

「中京における文教の振興」は、江戸時代の"寛政〈かんせい〉の改革(1787~93)"の一環(地方版)として、実現されたかも知れない、されなかったかも知れない、という歴史「if(イフ)」、あるいは「?」付きの試論です。

"あゆちの風"の発信源

これからお話する「寛政の文教改革」は、シッポ(尻尾)へ行くほど太くなるので、先にその太いシッポのことをメモさせていただきます。

その前に、ぼくが夢で走った「常世〈とこよ〉の国(あゆちの風の発信源)は琉球だ」という説(「童門冬二の平洲塾」第192回)は、沖縄県庁・沖縄タイムズ・琉球新報などにも当たる必要があり、今、その時間がないので、しばらく棚の上に置きます。

が、捨てがたいのです。それにぼくは"あゆちの風"の発信源は、常世国一か所ではなくてもいいと思っています。極端にいえば、徐福〈じょふく〉が訪ね歩いた、かれの伝承を残す地域が全部そうだと仮定しても、ひとつの説になると思います。
とくに尾張藩の祖・徳川義直〈よしなお〉には"蓬莱〈ほうらい〉"思想が顕著でしたから‥‥‥。が、とりあえず措〈お〉きましょう。

述斎〈じゅっさい〉と一斎〈いっさい〉

「寛政の改革における文教振興策」で、中京(西と東の中間にある京、という地域的意味で名古屋・岐阜などを意識しています)における文教の振興を、特にとりあげるのは、この改革の主導を中京の出身者が行なっているからです。

すなわち、松平定信〈まつだいら・さだのぶ〉を核とした、

  • 林述斎〈はやし・じゅっさい〉=大学頭〈だいがくのかみ〉(今でいう文部科学大臣)、
    昌平坂学問所頭取〈しょうへいざかがくもんじょ・とうどり〉(今でいう東大総長)
  • 佐藤一斎〈さとう・いっさい〉=正面に立たず(後述)。
    ただし、述斎と同じ岩村藩(現在の岐阜県恵那市)出身。述斎の学び、遊び友だち、しかも終生の友。

です。

寛政の文教改革は、定信の意図はどうあろうと、昌平坂学問所の教授たちの合意が"異学の禁"にあったように、孔子イコール論語の確たる位置づけにあったと思います。

しかし、定信の政治はどちらかといえば、"底流者(貧しい人や弱い立場の者)"視線〈めせん〉で、このへんは、細井平洲先生とピッタリです。

それはいいのですが(本当は、ひとつもよくない)、問題がありました。それは、今まで立場と身分があいまいだった一斎先生が、"陽朱陰王〈ようしゅいんおう〉"(表面は朱子学〈しゅしがく〉で、陰〈かげ〉で王陽明〈おうようめい〉が説いた陽明学を教える)学者だったことです。

定信は、

  • 述斎を文部科学大臣(大学頭)に任命し直し
  • 管轄する昌平坂学問所(もともとは林羅山〈はやし・らざん〉を祖とする林家の私塾)を
    幕府管理(国立大学)にしました。
  • 総長は述斎です。

当然、問題になるのが一斎先生の処遇です。

  • "異学の禁"に固守する教授連はガンコです。陽明学を絶対に受け入れません
  • ということは、一斎先生を官立大学になった昌平坂学問所の教授には受け入れない、ということです。
  • 述斎は窮地に立ちます。

そこで、一斎先生は述斎に告げます。

  • 私は昌平坂学問所から身を引く。
  • 代わって八重洲〈やえす〉(江戸の町)に述斎の私塾がもう一つあるから、そっちの教育を担当しよう。

「しかし、それでは‥‥‥」と述斎はためらいます。一斎はこう応じます。

「そういっては悪いが、きみは政治能力はすぐれているが、学問の研究はその分、時間が取れなかった。だから私が代行した。育てた弟子には私も愛情がある。昌平坂が官立になれば全員が残れるわけではない。ハミ出る分は八重洲でめんどうをみる。どうだ?」

(以上は、ぼくの空想上のやりとりです)

ウイルスの壁を人間の心でこわす

ぼくは佐藤一斎の立場にずっと疑念をもってきました。

一斎先生は、はじめから昌平坂学問所の教授だったのか? と。学問所が林家の私塾であった時は可能です。しかし官立になったあとは問題があります。

そして、事実、一斎先生の履歴には、「昌平坂学問所の教授になる。70歳」とあります。この時は、盟友・林述斎が亡くなった時です。つまり、述斎は生きている間は一斎さんを学問所の教授にできなかった(しなかった)ということです。かれの政治家的対応でしょう。

その間における一斎先生の心境を推しはかると、ぼくは胸が迫ります。

しかし、

  • 林述斎との幼いころからの友情
  • 述斎が林家の養子になってからの立場
  • 乞〈こ〉われて、学問所の教授担当になってからの努力
  • 特に、学問所が官立になってからの立場のあいまいさ

など、ぼう大な『言志四録』の一端は、あるいはそのはけ口として書かれたのかも知れませんねぇ。

「おまえさんは小説家だから、そんな偏〈かたよ〉った深読みをするンだ」という誹〈そし〉りをされると思いますが、ぼくには、人間としてずっと気にかかっていたことです。

そのため、ぼくには一斎先生が、よけい人間の幅が広く胸が深く思えてきたのです。

ですから、「中京の文教振興」には一斎先生も大いに活躍してもらいたいと思います。大著『言志四録』はもちろんですが、『重職心得箇条〈じゅうしょくこころえかじょう〉』(岩村藩の重臣に心構えを説いた書)などの小著も、現在〈いま〉すごく役に立つ気がします。

話がとびとびになって済みませんが、要はいまのウイルス社会で、"共生"という妥協策をとるのなら、こちら側の武器として、当面は『論語』の、「徳あれば必ず隣あり」【注】の育成・周知にはげみ、「ウイルスの壁を人間の心でこわす」という活動で挑戦したいのです。それも牙〈きば〉をむくのではなく、ソフトで、つまり、"微笑もて正義をなす"、やさしく温かい行動でです。"あゆちの風"を嚶鳴協議会から吹かせ(発信し)たいのです。佐藤一斎没後250年を記念して一斎のふるさと恵那市で、今年の11月18日、19日に開催される嚶鳴フォーラムも、その一つとなるのではと期待しています。

※【注】「徳孤〈こ〉ならず、必ず鄰〈りん〉あり」=徳のある人は孤立しない。必ず仲間がいる。(『論語』里仁〈りじん〉編)

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