平洲塾196 平洲先生の真意 人見弥右衛門と平洲先生

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ページ番号1005523  更新日 2023年2月20日

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平洲先生のことば(8) 言われたかも知れないことを含めて

心の底にあった思い

平洲先生の「中国語による論語の講義」は、聴衆の一部の人気を得ましたが、一部では批判されました。「尾張国(ひいては日本国)を『明〈みん〉(ほろびた中国)にするつもりか?』」と非難されました。

このことははじめから先生が予想したことです。というより、このことを起点にして、実は平洲先生には知りたいことがあったのです。

それは、「尾張藩祖・徳川義直〈よしなお〉公の尾張藩経営の理念」といっていいでしょう。

義直公は徳川家康の9男です。小さい時から家康に信頼され、甲斐〈かい〉(山梨県)国守(25万石)、駿府〈すんぷ〉城主、清洲〈きよす〉城主を経て、名古屋城主になりました。

正直にいって、若いころの平洲先生は、生まれ故郷(尾張国)にあまり関心がありませんでした。学問にしても身近な所に中西淡淵〈なかにし・たんえん〉先生がおられることに気づきませんでした。米沢藩主上杉治憲(鷹山)の教育やその藩政改革の指導はしても、尾張藩に同じことをするために、積極的に近づこうとはしませんでした。伊予〈いよ〉(愛媛県)西条藩の藩主が紀州〈きしゅう〉(和歌山県)藩主になったあとも藩政指導を続けているにもかかわらずに、です。

「自分から望んだわけではない。すべて相手から頼まれたからだ」というのは言い訳で、平洲先生は心の底では、ジクジたるものがあり、うしろめたかったのです。ですから、人見弥右衛門〈ひとみ・やえもん〉と、その背後にいる尾張9代藩主徳川宗睦〈むねちか〉からの招きは、先生にとっては、そういう気持ちを解消するのに望むところでした。俗な言葉を使えば、「これでごぶさたつづきの故郷の藩に多少のお役に立てる」と思えたからです。

平洲先生と弥右衛門の問答

しかし、それにしてもなぜ、中国語で『論語』を教えるのか。そうすべきだという日本の学者はたくさんいました。荻生徂徠〈おぎゅう・そらい〉はその代表です。

「2000年前の中国古語で論語を勉強しなければ、論語の本当の意味はわからない」と主張しています。

「それは言葉だけではなかろう」と平洲先生は思っています。

「生活体験も同じだ」と考えていました。ですから、「日常生活も2000年前に戻して、体感するのがつぎの授業だ」と思っています。

「まず人見さんに相談してみよう」と考え、名古屋城の一室に人見弥右衛門を訪ねました。

「これは先生」

平洲ファンの弥右衛門は歓迎しました。何か書き物をしていました。平洲先生を信頼しているので隠しません。自分から、「ご老中松平定信様への上申書です」と告げました。

「ほう、内容は?」

「大名の参勤交代の改革です」

「どのように?」

「せめて1年おきにするとか。5年に一度が希望ですが…。今、大名家(藩)が困窮を極めているのは参勤交代のためです。松平ご老中も白河藩(福島県)主ですから、このへんのお苦しみは自らご体験のはずです。先生のお考えは?」

イキナリほこ先を平洲先生に向けてきました。先生は「賛成です」とハッキリ答えました。

これが平洲先生の特徴です。

自分からは積極的に発言しませんが、聞かれればキチンと答えます。決して逃げないのです。自分の考えは必ず持っていました。奥ゆかしいのです。

「よかった!」

平洲先生の賛成を得て弥右衛門はホッとし、「さて、それでは先生のご用件を承りましょう」と姿勢をかえました。先生もキチンとしました。

「率直にうかがいます。現藩主の宗睦公のお考えは、そのまま藩祖義公〈ぎこう〉(義直)のお考えとまったく同一だと受け止めてよろしいか?」

「……」弥右衛門はちょっととまどいました。平洲先生の質問はかなり省略した部分があったからです。しかしほとんど間をおかず、ハッキリと、「同一です」と、ニッコリ笑ってうなづきました。

平洲先生が知りたかったこと

平洲先生が省略したのは、現藩主の宗睦が展開中の「尾張藩の藩政改革」のことです。それが藩祖義直と〝理念〟が同じであり、内容も同じなのかという確かめなのです。

宗睦が実行しているのはつぎのようなことです。

  • 藩民と藩士を困窮させないために、藩の生産を高め、商工業を盛んにすること。
  • 特に藩の特産である瀬戸と常滑〈とこなめ〉の焼物を増産し、知多半島の各港から漁民を物流船として東海の各市場に搬入させること。これには渥美半島の漁民も協力させること。
  • 藩校明倫堂〈めいりんどう〉を士農工商に開放し、藩民の質的向上をはかること(中京の文教改革)。
  • 老中の松平定信殿を支持し、幕府改革から逸脱しないように努めること。
  • 特に文教政策においては、〝朱子学〟を正学にすること。

(※松平定信を老中に立てるのに宗睦はその先頭に立っていました。宗睦は先代宗勝の子ですが、宗勝は高須藩主でした。高須藩は義直の三男が藩祖であり、尾張藩主の予備軍でもあったのです。)

平洲先生が知りたかったのは、宗睦の改革内容が、実は義直がやりたかった(あるいは実行した)ことと同じであり、特に藩校での正学を「朱子学」にしていたかどうかでした。

それは、学問を統括する幕府の大学頭〈だいがくのかみ〉林述斎〈はやし・じゅっさい〉(岩村藩主松平家の出身)が朱子学者であり、3人の教授が「朱子学を正学とし、他の学説を〝異学〟とする」と定めていたからです。

いまなら〝学問の自由を犯す規制〟として非難される暴法ですが、当時としてはいろいろな事情があったのです。

そしてもっと驚いたことには、この〝異学の禁〟の裏をかく仕掛けが、老中松平定信黙認の下に堂々と行なわれていたことです。

3人の学者が異学として、「幕府の大学である昌平坂学問所〈しょうへいざかがくもんじょ〉」では教えていないとして指定したのは「陽明学〈ようめいがく〉」です。王陽明〈おう・ようめい〉の学説で、「論ずるよりも行動せよ」という学説です。

昔、孟子〈もうし〉の学説が同じような扱いを受け、「孟子の本が玄海灘を渡る時(日本に輸入される時)は、その船は沈む」といわれました。「孟子の説には革命性がある」という者がいたためです。

王陽明の〝行動重視〟もそういう眼で見られたのです。たしかに後に大塩平八郎〈おおしお・へいはちろう〉のような反幕人が出たことは事実です。しかし大塩事件は幕府の方が悪いので、大塩は私欲のために謀反を起こしたわけではありません。

ただ熱心な陽明学者だったため、そういうレッテルが貼られてしまったのです。

平洲先生のころは、それよりずっと前の時代ですから、なぜそれほど警戒したのかよくわかりません。むしろそのための仕掛けの方の大胆さにビックリする始末です。

では、その仕掛けとは? 次回、お話ししましょうね。 (つづく)

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