平洲塾189 「おことば集」を書くにあたって

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ページ番号1004508  更新日 2023年2月20日

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平洲先生のことば(1) 言われたかも知れないことを含めて

細井平洲先生の「おことば集」を書かせていただきます。といっても先生には必ずしも、そういうタイトルでまとめた物があるわけではありません。

結局先生は、"存在"そのものが"師"だったので、慕〈した〉う人間にとっては、先生の朝から晩までのしぐさや、洩〈も〉らされることばのひとつひとつが、いわゆる"平洲語録"になったのだと思います。

いってみれば、慕う者にとっては、その場に居合わせた時点(アップ・トゥ・デイト)で耳にし、目にしたことは、すべてその場で自身の心の中に溶けてしまう(消化されてしまう)のです。

ぼくはどうしてもわからないナゾを平洲先生に持っています。先生の教育は、「いわゆる知識階級(武士)より、農庶民を重視した」とよくいわれます。

そして話をきいた相手は数千人から数万人に及び、等しく、「涙を流して感動した」と伝えられています。

「話の内容がやさしくわかりやすいから」というのがひとつの理由とされています。

これは推測ですが、先生はおそらく題材として、いまでいう、「マスコミでの社会面の記事」を扱われたのではないでしょうか。しかも孔子〈こうし〉よりも孟子〈もうし〉の"忍びざるのこころ"を大切にする先生は、話の力点を"日本人の美しいこころ(やさしさ・ぬくもり・共有のこころ)"などにおかれます。

結果、事件の一部に"美談"的要素を発見し、それに共感性や感動性を加味されて話されたのだ、と思います。それが聞く人々の胸にひびき、「いまの社会は悪だけではない、善も存在するのだ」と感じさせ、その場でのいわば"現場消化"が多かったのではないか、と思います。

ぼくがナゾに思っているのは、「それほどの感動性の遺品(話の記録)」がほとんど残っていないことです。

それをいまは、「きいていた人びとの心に消化され、記録など残らなかった(残る時間などなかった)」と考えています。

ぼくも平洲先生の"孟子的善性"を信ずる信者のひとりですから、"人間の性は善だ"と思っています。

さて、そういう考えに立つと、先生の"おことば集"は、その場(当時の民衆と共に生きていた先生と民衆との出会いの場)に実際に居合わせなければ、再現は不可能ということになります。

それをやろう(実際には「やれ」という童門イジメの企画者-ひとりでなく〈複数〉-)がいるのです。

ぼくは"乗る"ことにしました。ぼく自身の勉強にもなるからです。ナゾの解き方に別な面が発見できるかも知れません。

それにぼくもまもなく満95歳になります。この仕事をひじょうに大切に思っています。それはこの仕事によって、平洲先生が、「農庶民に期待したものは何だったのか」ということの片鱗をつかめるかも知れないからです。東海市や嚶鳴<おうめい>協議会などのおかげで、この世における持ち時間スレスレの時期に、こういう機会を与えていただいて心から感謝いたします。

でははじめさせていただきます。以上のような状況ですから、ご紹介する内容にかなり"歴史のif(イフ。かも知れない)"が混じることをあらかじめおことわりしておきます。

(つづく)

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