平洲塾186 平洲先生が両国橋に通った理由(2)

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ページ番号1004511  更新日 2023年2月20日

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平洲先生がその後自分も演台に立って"人間の生き方"をテーマに講話をはじめます。目的は何度も繰り返しますが、「まだモブ(群衆・大衆)段階にいる江戸の庶民を、“公衆"(私は“誰かさんをよろこばせようと努力する人びと"と定義しています)に止揚(アウフヘーベン)するために」講話をはじめたのだと思っています。そのために経営する「嚶鳴〈おうめい〉塾」の塾生たちには"自由な討論"をさせたのだ、と考えています。もちろん単に"時間を生む"ためだけの便法ではありません。

吉田松陰が松下村塾に採りこんだように、これが平洲先生の重要な教育法なのです。昔は、「社会で尊敬される三つの職業」というのがありました。「学校の先生」「お医者さん」「お寺のお坊さん」です。現在は社会状況の変化で評価が変わりましたが、私自身はこの三職業に対する"聖職観"をいまだに持ち続けています。それは私が学んだ三職の先生方を現在も尊敬しているからです。

小学校で副校長の柚木〈ゆき〉先生が担任でした。私は級長(生徒たちの選挙で選ばれた)でした。しかし柚木先生はこの立場の権威を認めませんでした。クラスの生徒が下校する時に「級長は残りなさい」と告げます。用があるからです。

用というのは教室の掃除です。先生は箒〈ほうき〉でゴミを集めます。集めたゴミを私は用具で受けとめます。信じられないかもしれませんが、この仕事に私は誇りを感じていました。先生はいつも、"級長はクラスの御用ききだよ"と告げておられました。でもそれは"誇り高い御用きき"でした。なぜならこの掃除は級長だけに命ぜられたからです。先生が箒で掃きよせるゴミを、チリとりで受けとめる私の胸は感動で一杯でした。いまの言葉を使えば"胸キュン"です。

先生は生徒一人ひとりの家庭状況もよく知っていました。私の家は小さな町工場でした。旋盤〈せんばん〉、ミーリング・プレスなどの器具が並んでいました。仕事には母も動員されていました。いきおい私の世話などできません。休日もお金を渡されて、「カツドオ(活動、映画のこと)でも行っておいで」と告げられます。でも家の事情ですから私も素直に従います。

このことを柚木先生は正確につかんでおられました。ある時、「太田くん(私の姓)つぎの日曜にはウチへおいで」と招いて下さいました。行くと書庫へ連れて行かれ、「これを読んでごらん」と言っていくつかの本を渡されました。『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)、『真実一路』(山本有三)などです。先生の読書指導はいまも生きています。作中のコペル君(『君たちはどう生きるか』)や吾一〈ごいち〉(『真実一路』)さんはいまも私のよい友だちです。

ですから柚木先生は私にとって忘れられない"尊敬の対象"であり"聖職者"なのです。

笑い話があります。

私は仕事場にくる若い編集者には、必ず『君たちはどう生きるか』と、林屋辰三郎先生の『京都』を進呈しています。

ある時日経からきた人が『吉野源太郎』という名刺をくれました。例によって二冊の本を渡すと『京都』だけをうけとり、もう一冊はけっこうですと言います。

「いいからお持ちなさい」とすすめると、「うちのおやじが書いたンです」と済まなそうな顔をしました。私も引っこみがつかず、「早く言ってくれよ」と応じましたが、あとは大笑いです。一種の因縁〈いんねん〉ですね。こんなこともあるのです。

さて話を戻します。ですから平洲先生の両国橋通いは、

  • 最初は先生自身の"話術"の修得のため
  • その後は先生の講話のため

という二つの目的達成のためだった、と考えています。

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