平洲塾197 寛政の文教改革の主導者は岩村藩主従 人見弥右衛門と平洲先生

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ページ番号1005540  更新日 2023年2月20日

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平洲先生のことば(9) 言われたかも知れないことを含めて

林述斎も平洲先生の指導を受けた

このコラムも、"仕掛け""仕掛け"といっているうちに、"仕掛け"が平凡なできごとになり、読んで下さる方が、「何だ。仕掛けでも何でもない。フツーのできごとじゃないか」と、アイソもつかすことになりかねません。そこでぼくがまだ「仕掛けだ」と思っているうちに、「なぜそう思うのか」ということを、少しキチンと整理しておきます。

関係する人物は、林述斎〈はやし・じゅっさい〉・佐藤一斎〈さとう・いっさい〉・松平定信〈まつだいら・さだのぶ〉たち。ドラマでいえば主人公です。それも誰が主演というのではなく、この3人はそれぞれが個性を発揮して、その存在をあきらかにします。名優たちの競演といっていいでしょう。人物の紹介からはじめます。

まず林述斎から書きます。

美濃国〈みののくに〉(岐阜県)岩村藩主松平乗薀〈まつだいらのりもり〉の3男です。江戸鍛冶橋〈かじばし〉にある藩の江戸屋敷で生まれました。以後ほとんど学者生活をつづけ、江戸ぐらしがほとんどでした。岩村の方々には申し訳ありませんが、岩村には一度も帰っておりません。お城に行く道の両脇の家々の軒にさがった"のれん"の列も見ていないのです。もちろんよく整備されたお城も。これは佐藤一斎先生も同じです。50歳の時一度立ち寄ったことがあるようですが、所詮パッセンジャー(通行人)の旅でした。でも理解して下さい。2人はそれほど学問に熱心だったのです。

林述斎は、幼時は徂徠学派〈そらいがくは〉の服部仲山〈はっとりちゅうざん〉に学んだといわれます。少年のころすでに漢〈かん〉や唐〈とう〉の訓詁学〈くんこがく〉(字句の注釈を大事にする学問)に疑問を持ちました。違う先生の指導をうけたからです。違う先生というのは、細井平洲〈ほそいへいしゅう〉・渋井太室〈しぶいたいしつ〉などの学者です。平洲先生の名を発見して、思わずへへと一人で笑いました。うれしかったからです。ぼくのみた資料には、「かなり影響をうけた」と書いてありました。「それはそうでしょう」と、ぼくは独りでうなずきました。

衡〈たいら〉と坦〈たいら〉

もっとうれしいことがありました。これらの勉学を述斎(名は衡〈たいら〉)先生はひとりでおこなっていたわけではありません。

4歳年少の学友がいました。岩村藩の重職佐藤信由〈さとう・のぶよし〉の息子坦〈たいら〉(佐藤一斎)です。音で読むと衡〈たいら〉と同じです。でも衡は、「家臣のクセに若殿と同じ名前をなのるなンてナマイキだ」などとはいいません。衡はやさしく親切にそれこそ本当の兄のように坦の面倒をみました。足りない文房具も、「これをお使い」と自分の分を惜しげもなく坦に与えました。坦の読書力は優秀で特に書にすぐれていたといわれます。

余談ですが、ぼくは前に一斎先生の書をみたあと、愛知県の田原市で渡辺崋山〈わたなべかざん〉の書をみたことがあります。一瞬ですが、おもわず(あッ、似ているな)と思いました。案内してくれた学芸員もそのことを話し、口に指をあてて、「内緒ですよ」といいましたが、末尾が流れるようなお二人の字体は忘れることができません。

バックグランドは寛政の改革

話を戻しましょう。当時は老中松平定信による"寛政の改革"(幕府三大改革の一つ・改革の目的は文教振興による国民の精神の作興(ふるいおこすこと)、特に幕府役人の叩き直し。能力再発見の試験制度も設けた。ぼくのこのコラムもバックグラウンドは定信の改革の最中です。

定信の人物探しの眼にとまって、衡が相続人を欠いていた幕府大学頭〈だいがくのかみ〉(今の文部科学大臣)の養子に指名されました。8代目の大学頭に就任します。以後、幕府の文教政策や外交に努力します。鎖国していましたが、中国とオランダとは普通通りの交流、朝鮮とはこれに準ずる交流(通信使)をおこなっていました。

開店休業状況だった「湯島の聖堂」も、観光の対象ではなく、"活動する学校"としての機能をよみがえらせました。"聖堂"というのは"聖人"とされていた孔子を祀〈まつ〉ったお堂のことです。

これによっていままで半官半民的運営で、性格があいまいだった聖堂の存在が、かなり幕府の"教育機関"の性格をつよめました。のち、昌平坂学問所→東京大学へ発展していきます。

「学問よりも政治面での活動がめざましかった。そのため教育学術面は佐藤一斎に任せた」と書いていることが多いからです。ぼくもそれをウノミにし、同じ親友でも、「衡は政治家、坦は学者」と色分けをして考えてきたのです。

ですから林家の私塾昌平坂学問所が幕府の管理(国立大学)になったのも、ぼくは長い間、「衡の政治力によるものだ」と思いこんできました。

"寛政異学の禁(幕府では朱子学を正学とし、王陽明〈おうようめい〉の学を異学として避けること)"が出ているので、衡も朱子学を重んじましたが、記録によれば、学問については、「学者個々人の選択にまかせ、干渉や強制はしなかった」とあります。"学問の自由"を守ったのです。ぼくはホッとしました。が、このことで"仕掛け"説の一端が崩れました。

多くの解説書が、衡について、

  • そういう面が全くないとはいえませんが、この認識はかなりまちがいです。
  • 衡は学者としても一流であり、その業績に日本の文教史発展に相当の功績を残しています。

と書いています。

ところで、それでは、学友の坦(一斎)先生はこのころ何をしていたのでしょうか? 次回お話させていただきます。

よいお年をお迎えください。 (つづく)

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