平洲塾198 松平衡(林述斎)の再評価 人見弥右衛門と平洲先生

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ページ番号1006472  更新日 2023年3月29日

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平洲先生のことば(10) 言われたかも知れないことを含めて

 陽朱陰王〈ようしゅいんおう〉

 岩村藩松平家の江戸藩邸で生まれた佐藤一斎〈さとう・いっさい〉は、藩主の子息・衡〈たいら〉と兄弟のように育ちましたが、その関係はさらに続きました。

 衡が林述斎〈はやし・じゅっさい〉となり大学頭〈だいがくのかみ〉(今でいうと国立大学学長兼文科大臣)となったのちも、その手助けをしたのです。

 林家には私塾が二つありました。ひとつは昌平坂学問所〈しょうへいざかがくもんじょ〉です。そしてもうひとつは、八重洲〈やえす〉にあった塾です。

 一斎先生は八重洲のほうの塾長です。昌平坂の学問所が老中松平定信(今でいうと総理大臣)の文教振興によって国立大学になると、このことはさらに明確化されました(とぼくは思います)。

 確かな記録では一斎先生が、

 「昌平坂学問所儒官(総長)」に任命されたのは、70歳の時です。で、55歳の時に隠居していました。このへんから"仕掛け"の問題になります。

 国立大学になった昌平坂学問所では、教授たちが、

 「昌平坂学問所では"朱子学〈しゅしがく〉"を教え、異学を禁ずる」と合意決議しました。有名な"異学の禁"です。異学とは王陽明〈おうようめい〉の学問(陽明学)です。

 ところが一斎先生は、"陽朱陰王〈ようしゅいんおう〉"と呼ばれ、

 「表面は朱子学を教えるフリをしている(陽朱)が、実際は陰〈ウラ〉では陽明学を教えている(陰王)」と評判でした。

 ぼくが"仕掛け"というのはこのことなのです。つまり大学頭の林述斎も、老中の松平定信も、このことを黙認したということなのです。

 

 学問の自由を守った勇気ある政治家

 さて、"仕掛け"のことですが、これは大変なことだとぼくは思います。

 国立大学の学長兼文科大臣と首相が、国禁を破る学者を黙認したということです。それでぼくはこのことを"仕掛け"と書いたのです。仕掛けた林述斎と松平定信を、

 「学問の自由を守った勇気ある政治家」

 として尊敬します。

 しかしさすがに昌平坂学問所で一斎先生の講義を認めるわけにはいきませんでした。そこで活用されたのが林家の八重洲の塾でした。よく、「一斎先生の門人は3,000人から4,000人いた」

 といわれますが、これは八重洲の塾の門人を含むものでしょう。そして裏返していえば、

 「一斎先生の陽明学に魅せられていた」

 といっていいでしょう。

 ぼくはこのことに、

 

 ・一斎先生と述斎先生の生涯にわたる信頼と友情

 ・一斎先生の最後までまげない信念と勇気

 ・高い立場からそれを黙認していく松平定信の決断

 

 等を感じるのです。

 江戸時代は何といってもパワー(権力)の時代ですから、この件に関しては最高の上位者である松平定信の勇気が高く評価されるべきだと思います。

 

 林述斎を見直そう

 それに林述斎となった岩村藩主の子、松平衡の勇気と決断もです。衡はもっと透明な目で見直されるべきだとぼくは思います。

 特に一斎のための気くばりは大変なもので、おそらく一斎先生の"陽朱陰王"の"陰王かくし"の一策でしょう。突然、一斎先生を、「岩村藩老臣」に任命させました。

 一斎先生は承諾し、すぐ、

 『重職心得箇条』(藩で重要な職に就く者の心得)

 を書いて藩に送りました。岩村には行っていません。八重洲塾が忙しかったためです。

 このへんの林述斎・松平定信の動きはまさに、

 「佐藤一斎先生のための工作」

 といえるでしょう。

 "陰〈かげ〉の努力"が長く、見方によっては「述斎先生を立てるための犠牲者」とも見られる一斎先生の、

 「意外な幸福の一面」

 だったといってもいいでしょう。

 岩村の学問的風土もあり、明治になってからも下田歌子先生(わが国近代女子教育の先駆者。実践女子学園の創始者)を生みますが、この風土醸成の一助には、松平衡(林述斎)の存在も加えていいのでは、とぼくは思っています。

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