平洲塾201 木曽山林での話のくふう 平洲先生の苦労

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ページ番号1007014  更新日 2023年5月23日

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平洲先生のことば(13) 小説 廻村講話~言われたかも知れないことを含めて~

名代官の目でどんな話を?

 「木曽ではどんなお話をなさいますか?」

 人見弥右衛門(ひとみ・やえもん)が細井平洲先生にききました。木曽というのは木曽山中のことで尾張藩に属する山林のことです。大坂城の豊臣氏をほろぼすとすぐ、徳川家康は木曽山林のすべてを九男の義直(よしなお、尾張藩初代藩主)に領知させました。

 形としては尾張藩領なのですが、街道に関所を設け、代官を置きました。代官は幕府直属の官僚で勘定奉行(最近のCMではクラウド(蔵人?))に属します。山村氏の世襲でした。

 したがって代官職である山村氏は、藩士としては尾張藩主徳川家の家臣であり、直参(じきさん)としては幕府の直臣という二重性を持つことになります。つまり仕える主人が二人いる、ということになります。

 ところがこのころ(平洲先生が藩民相手の廻村講話をおこなっているころ)の木曽代官の9代目の山村蘇門(やまむら・そもん)は“名代官”として名を高め、街道の通行者からは、その公平性を讃えられていました。だけでなく地域行政についても、その愛民の思想の行き渡りについて、住民から“鼓腹撃壌(こふくげきじょう)”の評判を高めていました。

 その理由をぼくはつぎのように受けとめています。

 

 ・蘇門が木曽の自然を敬愛していたこと。愛するだけでなく、敬っていたこと。

 ・したがって木曽のまち(中心地は福島)の“まちづくり”――いまでいう必要な市民施設(道路や橋、病院、学校などのハコモノ)の建設(インフラ整備)――についても、この精神を忘れなかったこと。

 すなわち必要以上の自然の破壊をおこなわず、野鳥や動物の棲家(すみか)を失わなかったこと。エサに不自由させなかったこと。

 ・極力、現状保持の工事をおこなったこと。

 ・そのまちづくりの根底には孔子の“恕の精神”や孟子の“忍びざるの心”が散見でき、工事地の住民の理解を、比較的なめらかに保っていたこと。

 

などがあげられます。

 それは蘇門さんがすぐれた漢学者であり、インフラ整備(まちづくり)に対しても、この精神を確実に守ったからです。

 そのイミで蘇門さんは、

 「木曽の守護神」あるいは「村神〈むらがみ〉様」といっていいでしょう。

 いまでいえば、

 「半面は政府官僚、半面は地域の首長」という兼任ポストにありながら、その二つをみごとに責任も果たし成果をあげていた、といえるでしょう。

 「そんな人物をさておいて、他の人物の話ができますか?」

 平洲先生はそういって笑いました。人見さんも苦笑しました。

 「そうでしょう。ですからどうなさるかな、と心配していたのです」

 「ご親切に感謝します。が、他の人物の話をいたします」

 「やはり。誰ですか?」

 「川村瑞賢(かわむら・ずいけん)さんです」

 「あの大開発者の? どんなところを?」

 「山林の仕事は木の切り出しと、その搬送が主なものになります。その心がまえを瑞賢先生に学ぶのです。それも蘇門先生のお考えの邪魔をしないように、話を組み立てます」

 「ハッハッハ。話はもうでき上っているようですね。安心しました。肩の重荷がおりました。お話が楽しみです」

 「あとでがっかりしないで下さいよ。私にとって人見さんは一番コワい目付(めつけ)なのですから」

 「滅相もない! そんなことはありませんよ。ハッハッハ」

 「ハッハッハ」

 二人は笑いあいました。しかし、胸の底で平洲先生は笑っていませんでした。笑えないのです。

学長廻村の条件

 明倫堂(めいりんどう、尾張藩校)の学長を引き受けた時、平洲先生は条件を出しました。

 「私にも学長講演の機会を与えて下さること。そして相手はすべて農民・庶民・漁民であること。もちろん木曽山林で働く山の民(たみ)も含めること」

 そういいながら本音(ほんね)では、

 (山の民に一体何を話せばいいのか)、とその瞬間から迷っていました。しかし頭の中をかきまわして、

 「これだ!」

 と気づいたのが河村瑞賢の山林切り倒しとその搬送の例でした。自然への愛敬の精神と、逆に人間のそういう自然に対する徳と、その徳に対する自然からの温かいお返しだったのです。平洲先生はそう思いついて、

 (これなら、徳の高い蘇門先生も異は唱えないだろう)

 と思いました。では、その話というのは、どんなものだったのでしょう?

河村瑞賢のチエ

 河村瑞賢が名を高めたのは、“西廻り航路”の設定です。大坂港から本州の北端(青森県の鯵ヶ沢(あじがさわ)港や酒田(さかた、山形県)港への日本海航路を開いたことです。諸国を実際に歩いて、瑞賢は地元とよく話しあい、納得を得て場所を決めました。その際一番気にしたのが「自然の保護」です。

 大坂の陣後、国内に建設ブームが起こりました。家康死後の3代将軍家光のころもまだ続きました。海路の開発者として有名な瑞賢の所にもハコモノの整備の仕事がきました。

 祖父家康を祀(まつ)った日光東照宮の拡張工事です。命じた幕府は、

 「用材は箱根の御林(おはやし、幕府直轄の山林)を使うように」といいました。

 時期は冬(10月、11月、12月の3か月)に入っていました。瑞賢は働く人々の手当はしましたが、用材の準備はほったらかしです。箱根の山に入って労務者に伐採はさせましたが、そのままです。木は切り倒したままなのです。そのまま江戸に戻り、労務者をブラブラさせるだけで仕事をさせません。

 ある日、江戸の空も雪雲におおわれ、市中では「この天気では箱根はさぞかし雪だろう」

 といううわさが立ちました。このうわさをきいた途端、瑞賢は労務者に、

 「集まれ。一緒に箱根にこい」

 と急がせました。

 箱根の山の中には、流れる川に大きな堰(せき)が造られていました。切り倒された木の一部が川岸まで滑り落ちていました。瑞賢は、

 「切り倒した用材を川岸のそばまで落とせ。雪を利用して滑らせろ」と告げました。

 労務者は顔を見合わせました。皆、心の中でアッと声をあげました。瑞賢は雪が降るのを待っていたのです。自然の力をこの作業に利用するためです。用材は雪の上を滑って全部川のほとりに集まりました。これをみて瑞賢は、

 「ここで仕事は終わり、江戸へ戻る。早く戻ってイッパイやろう」といいました。労務者はワァと歓声をあげました。

 瑞賢が再び箱根の山に戻ったのは、春の雪どけのころです。箱根の山中では堰がいまにも破れそうです。中では落ちこんだ用材がゴツンゴツンとその堰を破りかけています。

 瑞賢は、

 「堰を除け。用材は小田原まで自分で流れる。働く者の一部はすでに小田原で待っている。着いた用材をイカダに組んで江戸から利根川へ運べ。日光へ届けるのだ」

 労務者は誰もが納得しました。そして、

 

 ・自然の法則をムリをして破らない。

 ・逆にその力(法則)を活用する。

 

 という瑞賢のチエに感心し、

 「それが自然への愛情なのだ」

 という瑞賢に感動するのでした。そしてさらに、

 「この愛情をおまえたちの主人山村様は世襲で注いでおられるのだ」

 という言葉に、改めて、

 「なるほどそうか」

 と思うのでした。瑞賢は江戸時代初期の人です。山村家はそのころから木曽代官をつとめています。実をいえば平洲先生は事前に蘇門先生に、「瑞賢先生の雪の利用の話をします」と予告していたのです。蘇門先生もそのエピソードを知っていました。こういいました。「尾張藩の中でも木曽山林の民の誇りが、他の民よりも高まっています。放っておくと、藩内で問題が起こるかも知れません。私は代官の仕事が忙しく手がまわらないのです。瑞賢先生のお話は、山で働く者の心がまえとして格好の教材です。よろしくお願いいたします」という了解があったのです。

 二人が合意したのは、山林の木に対する敬愛の気持ちです。木を家族と思い、友と思う気持ちです。それは人間としての徳です。雪はその徳に対する山林のお返しです。

 平洲先生はわかりやすい話術の達人です。心配していた木曽福島での講話も成功しました。山林で働く民が、主人山村蘇門先生の自然に対する徳の実態を、より広くより深く認識するようになったからです。

 そして「オレたちは他の民とは違うのだ」と高まりつつあった誇りの気持ちも、「他の民よりも恕と忍びざるの心がゆたかなのだ」というように切りかえて考えるようになりました。

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