平洲塾205 “新民"は幻の民〈たみ〉か?(1)

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ページ番号1007914  更新日 2024年1月31日

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平洲先生のことば(17) ~言われたかも知れないことを含めて~

真人のこと

 ずいぶん前に“真人”という言葉に出会ったことがあります。“しんじん” “まことのひと”と読むのでしょうか。
 最近思い出して、
 「平洲先生が出会った“新民”のことかな?」
 と思っています。
 何回か前に、トランプ大統領と“新しい市民”の出会いのことを書きました。双方の瞬間凍結的たじろぎのことを書きました。
 あれは、双方が、
 「人間の真実を見抜く純粋な透視力」
 を持っていることのあらわれだと思っています。人の世における一切の夾雑物〈きょうざつぶつ〉を除き去って、真実だけを残した人間のふるまいを表したものになるのでしょう。
 トランプさんにすれば、選挙にからんで自身がおこなった醜行のかずかず(裁判沙汰)が、本当に身におぼえがないのか、とくにその後(落選後)の、支持者の議会突入の扇動(この時はまだ予知)は本当にウソだったのか、本当だったのかをこのグループは見抜く予知力を持っている――いずれも未来の話しなのですが“真人”はその予知力をそなえている――その力を感じてタジロいだのでしょうか?
 市民グループのほうは、そういうトランプさんの感得力に気づいてタジロいだ、という出会いだったのかもと思っています。
 いずれにしても、ぼくにとってはいろいろなことを考えさせる出来事でした。ただいえるのは、

 ・平洲先生が散発的に出会っているのは、『大学』に書かれた「新民(あらためられた民〈たみ〉)」であること
 ・平洲先生が努力する“大衆の公衆化”は、こういう民を創造することに目標があること
 ・できれば日本の社会を『大学』の示すような“新(親)民”で満たしたいこと
 ・そしてそれが「中京ルネッサンス」の目的でもあること

 ということです。

 

良い市民と良い市役所職員を生み出すために

 しかし、では一体何のために大衆だの、公衆だのPRだのと、ぼくは小むずかしいことを書き立てるのでしょうか。
 理由はかんたんです。
 このことを実現することによって、ぼくは、
 「よい市民とよい市役所職員」
 を生みたいのです。そしてそれを恒久化したいのです。
 身近なことでいえば、
 「よい東海市民と東海市役所職員の創造」
 です。
 おそらく、
 「そんなことは歴代の市長の導きで、とっくに実現されているよ」
 という答えが返ってくると思います。ぼくもそのことは実感として感じます。
 「そんなことはパッセンジャー(通過者)の余計なお世話だ」といわれることは百も承知です。
 ぼくの文中で細井平洲先生が赴いた場所で「会う」とか「見かけた」という表現があります。誰と会い、誰を見かけたのか?
 ぼくはズバリ言って「新民」だと思います。『大学』でいう「改まった民」です。今の表現を使えば、“公衆”です。PRのパブリックです。“新しく自分をはじめる人間”です。“新しい可能性を発見した人間”のことです。
 中京の文教による地域づくりは、論語の“恕〈じょ〉”と、孟子の“忍びざるの心”を土台にしています。恕によって住民のニーズを集め、忍びざるの心によってそれを実現するということです。
 (つづく)

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