平洲塾208 インフラ整備は必要不可欠

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ページ番号1008224  更新日 2024年3月22日

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嚶鳴〈おうめい〉協議会教育長意見交換会でのメッセージ(2)

令和5年(2023年)4月21日(金曜日)に、オンラインで開催された嚶鳴協議会教育長意見交換会でのメッセージを6回にわけて掲載します。

 忍びざるの心

 孟子という人がいます。人間の性(本来の姿)は常に善であるという性善説の提言者です。孔子よりも200年ぐらい後に生まれた人で、孔子が説いた「恕」をもう少し柔らかくして、「忍びざるの心」と転用しました。
 これには、孟子自身の経験があります。家の傍に井戸がありました。昔の井戸はみんな堀り井戸ですね。水を組み上げていました。近隣の住民が共同で使用していたのです。今で言えば町に必要不可欠なインフラです。
 ある時、孟子が窓口で勉強していると、通行人が通りかかりました。その通行人が突然、「危ない!」と叫ぶと、井戸に向かってかけ出しました。よちよち歩きの赤ん坊が井戸に近づいていて、今にも井戸に落ちそうになっていたのです。その姿を見て、孟子は思いました。「人間には、見るに忍びないものがあるのだ。この人は、何としても赤ん坊を助けなければならない、自分が行動を起こさなければいけないという衝動に駆られ、無意識のうちに行為に走っていった。そういう『忍びざるの心』を人はみんな持ってるのだ」
 と。
 「孔子先生は、それを"恕"とおっしゃっておられるが、私は、みんなが持っているその心を、"恒心"と名付けよう」
 と孟子は言いました。
 

「恒産」は行政の役割?

 ところが、「恕」「恒心」だけではだめなんだと、孟子は言います。
 なぜかというと、「恕」の精神も、「忍びざるの心」も、ある意味で、生活にゆとりがなければ、持てない心である。誰でもできることではない。つまり、人間は本来、善なる存在であることは間違いないが、その善の心は、ある程度のお金、すなわち経済的余裕がなければ、発揮できず、人に対してもやさしくできないのだと考えました。すなわち、「恒心」を発揮するには、条件が必要で、それを「恒産」と名付けようと孟子は考え、「恒産なくして恒心なし」と言ったのです。
 こんな話しをすると、「経済至上主義というか、金持ちばっかり大事にしていない?」というご意見も出るかも知れませんが、私は、そうではなくて、この「恒産」というのは、地域住民にとって必要不可欠なインフラ整備(時々、批判的に言われる「箱物」)のことを言うのだと考えています。
 つまり市民が本来もっている善なる心(「恕」の精神、「忍びざるの心」)を発揮して生活するためには、人々が安心して生活できる環境――家・住宅、あるいは病院、あるいは図書館。あるいは、ゴミの焼却施設、あるいは消防施設――こういう生きるために欠くことのできない箱物、都市施設、インフラ整備をすることが必要不可欠だということです。今という時代に孟子の言った「恒産」の現代的な意味とは、そういうことであり、これは、政治、行政の役割ではないかと、私は考えています(ただし、かつて「自助・互助・公助」という言葉がありましたが、市民の側も行政に甘えるだけでなく、自助努力もするということが大前提ですが)。だから、もし、そういうものを欠いているとすれば、やはりまだその自治体としての努力が足りないと言ってもいいのかなという気がしています。 (つづく)

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