平洲塾213 再考 細井平洲先生 第1回
一橋治済<はるさだ>の野望と田沼意次
平洲記念館名誉館長の童門冬二氏が、昨年、他界されました。謹んで、生前のご教導に感謝するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。「童門冬二の平洲塾」では、平洲記念館名誉館長・嚶鳴広場顧問として、東海市民に向けて、細井平洲を主題にした最期の講演となった、令和三年十一月の「嚶鳴講座」でのお話を六回に分けて掲載します。平洲先生の生きた時代の政治背景と平洲先生の基本的な考え方を紹介された講演ですが、今年の大河ドラマも同時代が舞台ですので、ドラマをより楽しむための参考としてもお読みいただければと思います。
八代将軍・吉宗の思い
八代藩主徳川吉宗(紀州藩出身)は、将軍になる時に、尾張名古屋藩と熾烈な争いをしました。将軍になった後、吉宗は、そんな相続争いにこりてしまった。二つの大名家が、親戚なのに血をみるような争いをしている。もう嫌だ。できれば今後は、自分の直系子孫に世襲をさせたいと思い、御三家の他に、御三卿〈ごさんきょう〉を作りました。
吉宗の在任中に、まず、田安家(宗武〈むねたけ〉・吉宗の三男)と一橋家(宗尹〈むねただ〉・吉宗の四男)を、そして、吉宗の長男で九代将軍の家重〈いえしげ〉の時代に、清水家(重好〈しげよし〉・家重の次男)を置いて御三卿にしたわけです。名前は、全部江戸城の門から来ており、今でも、田安門、一橋門、清水門として残っています。
ところが家重の後を継いだ十代・家治〈いえはる〉(家重の長男)の嫡男が早世し、男子が他にいなかったために、十一代将軍の継承問題がおこり、田安家の宗武の長男であり、吉宗の孫・定信(のちの松平定信)が次の候補者にふさわしいという世論になっていったのです。
そのときに、定信の従兄弟で一橋家二代当主の徳川治済〈はるさだ〉(以下では一橋治済と呼びます)は、自分の息子・家斉〈いえなり〉を将軍にしたいという野望を持っていました。そのためには世論が沸騰している田安家の長男坊を候補者から消さなきゃいけない。そこで、当時、家治の下で、将軍の側近として飛ぶ鳥を落とす勢いになっていた老中、今でいう総理大臣の田沼意次と手を結ぼうとたくらんだわけです。
田沼意次の表と裏
当時、田沼意次が何をしていたかというと、僕は、半分は徳川吉宗の財政赤字の尻拭いじゃないかと思っています。「新しいモノ好き」の吉宗は、ヨーロッパや東南アジアから、日本にまだない文物や、動植物をどんどん輸入したので、輸入超となり、輸入の赤字がものすごく溜まっていたわけです。
田沼意次は、父が紀州藩士でした。つまり和歌山で吉宗に仕えていたわけです。足軽だったのですが、大変有能なので、吉宗が将軍になるとき、 江戸城に連れてきて、直参にしたわけです。そこで、意次が生まれました。
だから、意次は、吉宗に大変な恩義を感じていた。そして、幕府で権力を握ると、その恩を返さなきゃいけない。では、どうして返すかといえば、出ている輸入赤字を少しでも減らして、流出した日本の貨幣――銀が多いのです――を取り戻すことが自分の役割だと思ったわけです。
田沼政治は泥まみれの悪徳政治だと言われますが、実は、動機は非常に善というか、吉宗のために考えたことです。
寛永十四(一六三七)年に島原の乱が起こった翌年、日本は鎖国をしました。キリスト教を禁止して、ポルトガルとかスペインといった国は、日本に来てはいけない。日本から行ってもいけないと、禁教令、鎖国令を出したわけです。それでいながら、オランダと中国と朝鮮とはつきあいを続けていたわけです。
田沼が目をつけたのは、中国です。ここはいろんな文化の発祥地で、特に食文化には、ならざるものがあり、ホタテとかウニ、あるいは甲殻類、エビ・カニ等が非常に高値で取引されている。これを日本から輸出しよう。奥羽地方から蝦夷(北海道)にかけて、たくさん取れるから、漁民の利益にもなるし、銀を取り戻すことも可能だろうと考えたわけです。
これが、大当たりしました。田沼は、その取引を、特権商人に全部扱わせたわけです。そうするとその特権商人たちがただじゃ申し訳ないと言って、「カステラ」(手土産の譬喩<ひゆ>です)を持って田沼の所に御礼に来る。当時、田沼の屋敷は神田にありましたが、朝からずらっ~と門の前、塀の前にズラーッと「カステラ」を持った人が並んで待っていました。
ただ、その「カステラ」はただのカステラじゃない。中にぎっしり小判が並んでいる。田沼は、「賄賂〈わいろ〉の哲学」という一つの哲学を持っていました。
どういうことかというと、お金というのは、人にとって大事なものだ。それを自分にくれるというのは、自分に対してよほどの好意を持っている人に違いない。だったら、その好意には好意を持ってお返ししなければいけない。もし、それが係長級の江戸城の役人だったら、課長を飛ばしていきなり部長にしてしまう。商人だったら、全部随意契約で契約を結んでしまうと、こういうことをやってたわけです。
田沼意次に白羽の矢を立てた一橋治済
一橋治済は、その田沼に、野心実現のために白羽の矢を立てたのです。そして、自分の息子を次期将軍にするために評判の田安定信を貶<おとし>めようという謀略を抱いて、田沼の所へいきました。そして、
「お前さんもこの頃、にぎやかにお暮らしのようだけれども、田安の長男がもし将軍になったら、お前さんもただでは済まないよ。当然クビになるだろうし、またお前の下にいた勘定所<かんじょうしょ>、財務省の役人たちで、お前を手伝った者たちも総なめにされちゃうよ。だから、定信を将軍にしてはいけない。江戸城のためにならない。そのために、力を尽くしてほしい」
「何をすればいいですか?」
「適当な大名家を探してきて、そこへ藩主として押し込んでしまえ。そうして、将軍の座には永遠につけないように仕向けたい。手伝えと。お前のためでもある」
と半分脅しをかけたわけです。
これに田沼が乗っかって、謀略が成功し、結局、田安の長男坊・定信は、福島県白河藩に養子として押し込まれてしまい、永遠に将軍の座を失ってしまったのです。 (つづく)
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