平洲塾211 平洲先生とその時代

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ページ番号1008298  更新日 2024年4月15日

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嚶鳴〈おうめい〉協議会教育長意見交換会でのメッセージ(5)

令和5年(2023年)4月21日(金曜日)に、オンラインで開催された嚶鳴協議会教育長意見交換会でのメッセージを6回にわけて掲載します。

 輸入超過になった享保の改革

 意地の悪い見方をすると、徳川吉宗が8代将軍として展開した「享保の改革」は、以外なことに、質素倹約と言いながら、むしろ輸出過剰・輸入超過の時代だったのではないかと思っています。
 江戸時代の日本は鎖国をしていましたが、実際には、オランダ・中国を通して、世界との交流がありました。鎖国の中の開国を行なっていたわけです。
 ですから、将軍の元にも世界の状況は入ってきます。徳川吉宗は、非常にハイカラさんでした。日本にない文化的なものや、あるいは動植物を惜しげもなく金を使って買い込みました。そして、上野の山や江戸城内に並べて動物園や植物園をつくる。これには、お金が大変かかりました。質素倹約を旨としながらも、コメ将軍として新田開発による産業の増進にも取り組んだ吉宗の治世でしたが、今風にいえば輸入超過になり、大変な赤字を背負いこんでしまったわけです。
 

田沼政治と、松平定信への期待

 その吉宗を、家臣として見ていたのが田沼意次でした。
 「もったいない。取り戻す必要があるぞ」
 と、田沼は考えました。そこで、まず目をつけたのが中国でした。中国では食の文化を大事にしているが、その素材――フカヒレとか、牡蠣とか、ホタテ貝とか――そういう珍しい海産物は、東北地方から蝦夷・北海道に行けばいくらでも取れる。そこで東北から蝦夷を開発して海産物を中国に輸出して儲けよう、ということです。
 田沼が行なった政治を一言でいうと、そういう外国に流通した日本の貨幣を取り戻すための経済政策でした。だから、経済政策を見るかぎり、田沼意次の施策は決して間違ったものでありません。
 ところが、田沼は政策を展開する過程でわいろ政治をしました。それが、世の中から糾弾されました。次のような川柳が流行りました。
 〈田や沼や汚れた御代を改めて、清く澄ませよ、白河の水〉
 田沼政治によって、日本の政治が汚れてしまった。どうか白河藩主の松平定信さん、あなたの手によって田沼を追放し、世の中をクリアしてください。こういう変化の要望によって、田沼意次を追放し、かわりとして、松平定信が出てきて、寛政の改革が始まるわけです。
 

徳川宗睦の文教改革

 評判の高い白河藩主・松平定信を、改革を実行するための総責任者として、老中筆頭・総理大臣の職にしてほしいと11代将軍徳川家斉にせまったのは、尾張藩9代藩主の徳川宗睦〈とくがわ・むねちか〉でした。
 宗睦の下には、人見弥右衛門という学者がいました。いい意味でのフィクサー的な存在でした。中京、すなわち中部地方の京と呼ばれる尾張名古屋は御三家とはいうものの、存在感も薄いし、まだまだ”役不足”。文教改革を主として展開することを考えたわけです。
 文教改革を主とするためには、やはり古代中国4000年の昔から、哲学者たちが言っていた『大学』をお手本にすることが大事だということになります。初代義直以来、尾張藩では中国思想を大切にする伝統が底流として流れていました。そんなこともあり、田沼意次が権勢をもっている時代から、藩主・徳川宗睦の下、人見弥右衛門を中心にして文教改革が始まり、細井平洲が尾張藩に招かれました。
 この時、にわかに、尾張藩が脚光を浴びるようになったわけです。
 尾張藩に招かれた平洲先生は、藩主の待講や藩校・明倫堂の学長として、武士を教育するだけでなく、自ら村々を巡って、藩民たちに講話を行ないました。官民あげての、教育改革に取り組んでいきました。
 そして、幕府からの指導や、江戸・京都といった大都会の模倣・後追いではなく、名古屋を中心にした、中京地方、いわゆる地域独自の文教改革を行なっていこうと動きだしたのでした。 (つづく)

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