平洲塾178 平洲先生と尾張藩 アフター宗春藩政の進路(2)

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ページ番号1004520  更新日 2023年2月20日

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前回、人見弥右衛門は、(1)安民〈あんみん〉(民のくらしをよくし、安定させること)や、(2)知人〈ちじん〉(賢者を登用すること)等を政治信条としていたことを紹介しましたが、尾張藩への細井平洲先生へのお招きは、人見の立てた(1)(2)の藩政実現のための、藩民の教育と藩士の研修(意識改革)が目的だったと思います。

藩民への教育というのは、ケネディ(アメリカの元大統領)の言葉がわかりやすいと思います。「国民は、国家が国民のために何をなし得るかだけでなく、国民が国家に対して何をなし得るかを考えてほしい」。

権利と義務、あるいはギブ&テイクと考えていいでしょう。

平洲先生の指導によって米沢(山形県)藩主の上杉鷹山は、現在の民主主義につながるような民衆観をもちましたが、宗睦は果たしてどうだったでしょうか。人見弥右衛門はどうだったでしょうか。

これも率直にいえば、ぼくは二人の「安民」も"上限(限界のある)付きの民主主義"ではなかったのか、と思います。

つまり、二人がたしかに「安民」を希〈ねが〉ったことは事実です。でもイメージしているのは、「『安民』の政策を施すのに値する藩民」ではなかったかと思います。具体的には、「藩の求めることに、ききわけのいい民」のことです。このシリーズで時折触れてきた"大衆"の"公衆化"のことです。これは、特に「安民」の言い出しっぺである人見弥右衛門の思想にかかわりをもつ問題です。

このことは必然的に招かれてきた平洲先生の仕事にもかかわりを持ってきます。平洲先生は上杉鷹山と同じ藩主像を徳川宗睦に抱いていたのでしょうか。人見弥右衛門に米沢藩の藁科松伯〈わらしな・しょうはく〉や竹俣当綱〈たけのまた・まさつな〉、莅戸善政〈のぞき・よしまさ〉などをイメージしていたのでしょうか。

そのことを解明して行く手がかりとして、そのころの宗睦と人見とがどういう職責を負っていたのか、を考えるのが早道でしょう。

二人の職責は、

  • まず、宗春政治の痕跡〈こんせき〉を洗い流す
    ということが大命題です。その後、どうするのか、といえば、
  • 藩を元の状況に戻す
    ということになると思います。ということは、藩祖の立藩精神(理念)に復〈かえ〉るということです。

藩祖義直の立藩精神は、

  • 徳川本家の藩屛〈はんぺい〉の代表となる。
  • 本家を立てて、ほかの二家(紀伊・水戸)と連繋〈れんけい〉して、いざという時に全大名を率いて文字通り藩屛となる。
  • そのために、日々、文武の錬磨に励む。

等でしょう。

高須藩から入った養子藩主でも、幕末の慶勝は、"おかれた状況"が違いますから、かれの言行も時に本家から離れたものになりますが、これはやむを得ないことと思います。

宗睦の頃はまだ"義直精神"の色合いがかなり濃かったと思います。

平洲先生は藩校である明倫堂での講義も行ないますが、それ以上に廻村講話〈かいそんこうわ〉に力を入れます。話の内容は善男善女の美談といってよく、アンチ藩政的なことは話しません。

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