平洲塾177 平洲先生と尾張藩 アフター宗春藩政の進路(1)

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ページ番号1004521  更新日 2023年2月20日

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徳川義直に始まる尾張藩主は"義直"系の血統が続いたわけではありません。細井平洲先生を学師として招いた9代目の徳川宗睦〈むねちか〉は、前代(8代目)宗勝の子ですが、宗勝は美濃国高須〈たかす〉(岐阜県海津市)藩主の息子です。

尾張藩としては異色の藩主宗春(7代目)のアンチ吉宗(8代目の徳川将軍)藩政の展開で、宗春は罰せられました。隠居謹慎を命ぜられました。しかし宗春にはあとを継ぐ子どもがいません。

そこで高須藩から宗勝を養子にもらって宗春のあとを継がせたのです。尾張藩と高須藩の関係は、松平姓を名乗り信濃国高井藩(長野県飯田市)3万石を領していた、2代目の尾張藩主徳川光友〈みつとも〉の二男義行〈よしゆき〉が元禄13年(1700)に高須に移封されて高須藩高須松平家の初代藩主となり、その後の尾張系藩主の基を開いたことにはじまります。幕末の尾張藩主徳川慶勝〈よしかつ〉も高須から入った養子です。

高須藩は3万石の小大名ですが、このように「尾張藩主予備軍」としての一面も持っていたのです。

平洲先生招致の仕掛人は、人見弥右衛門〈ひとみやえもん〉ですが、人見も純粋な尾張藩人ではありません。幕府の儒、人見靖安〈せいあん〉の息子です。叔父が尾張藩士でした。人見貞安〈じょうあん〉といいました。この息子になりました。学問が深いので宗睦〈むねちか〉の世子〈せいし〉(次期藩主)治休〈はるよし〉の侍講〈じこう〉(学師)を命ぜられました。

宗春時代を除いて、それまでの尾張藩の学風は義直流(学問もだが時として武術を重んずる)でした。が、人見導入によって少しずつ、その学風が変わってきました。

今までのぼくは、人物を扱うのにも、「何をしたか(現代のわれわれにどんな影響を与えたか)」を重視した"戸籍調べ"や"人間関係"に余り力を入れませんでした。新型コロナウイルスによって"おこもりぐらし(ステイ・ホーム)"を続けるうちに、考えが変わってきました。

"おかれた状況。特に権力との関係"によって、関心をもっている人物(この稿では平洲先生)の扱われ方や、平洲先生の生き方にもかなり影響があった、と考えるようになりました。

率直に言います。徳川宗睦と人見弥右衛門のコンビが出現しなかったら、尾張藩への"平洲先生お招き"はなかったと思います。

藩主の宗睦は父の宗勝の方針に則〈のっと〉り、その路線を確実に辿〈たど〉っています。人見はもっと独創的です。かれの政治信条は、藩主は、

  1. 安民〈あんみん〉(民のくらしをよくし、安定させること)
  2. 知人〈ちじん〉(賢者を登用すること)

などです。中央(幕府)政治においては、「赤字に苦しむ藩救済のため、参勤交代をゆるやかな制度に改善すること」などの意見書を出したりしています。

参勤交代は、もともと「大名の財政負担を重くして苦しめること」が目的ですから、幕府が承知するわけがありません。逆に、「人見というヤツは危険な思想家だ」と思われかねません。 (つづく)

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