平洲塾164 人のつながり 平洲先生の遠祖 その2

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ページ番号1004534  更新日 2023年2月20日

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立花宗茂と秋月家

ぼくは、筑後(福岡県)柳川の城主だった立花宗茂〈たちばな・むねしげ〉が好きで、一代記を書いたことがあります。その時に、宗茂の家柄を調べていて、この秋月家と遭遇しました。前回紹介したように、秋月家は、漢の高祖を祖とする渡来人「阿知使主」を遠祖とし、後に大蔵姓を名乗り、平安時代後期に大宰府・九州に根を張った優れた家系でした。秋月家の他に原田家、田尻家、江上家、高橋家があり、「大蔵一党」と呼ばれました。特に「高橋」家が有名でした。そのために戦国の雄であった大友家から、「高橋家に人を入れたい」といって、何人かの人物を高橋と名乗らせました。その一人が、立花宗茂の岳父(妻の父)であった高橋紹運〈たかはし・じょううん〉です。大友家の人ですが猛将でした。つまり、この時の大友家は、北九州で名のある名族の中に自分の家系を入れて、いわば、「血の発展的解消」を遂げて、大友家と高橋家を同族化しようと企てたのです。

当時このことを知って、ぼくは、(へぇ、立花宗茂も秋月家と関わりがあったのか)と思ったものです。歴史上の人物に関心を持つ場合、人物と人物につながりがあるかないかが関心を深めたり薄めたりするのはやむをえません。

高鍋町というのは、気概にあふれた自治体です。最初ぼくが行った時には、この町に「商工会議所」がありました。

法律では、「三万人以上の人口を持つ地域を市」とし、人口がそれ以下の場合には、「町」という呼び方をします。そして、経済界でいえば、町には「商工会」は置けますが、市でないと「商工会議所」を置けないのです。ところが、高鍋の町の有志たちは、「今の高鍋町の人口は、二万数千あって、間もなく三万に達する。市になる日は遠くない。だから、今から『商工会議所』を置いて、市の格式で行動しよう」と考えたのです。残念ながら、人口が三万人に達することは難しく、今も「町」のままです。しかし、ぼくは、「やる気のある自治体」が大好きでしたので、その時の高鍋町の気概を、「いてもいいだろう、こんなやつ」的に、大いに拍手をしたものでした。

その時も、改革者上杉鷹山の話をしました。

参勤と交代

確か、高鍋町は米沢市と姉妹都市提携を結んでいるはずです。ですから、町内の資料館には、鷹山に関する詳しい展示があります。

ただ、残念なことに、鷹山自身はこの町で生まれ育ったわけではありません。江戸の藩邸で生まれ育ちました。ずっと江戸暮らしで、自分のふるさとを訪ねたことはなかったようです。

今回、高鍋町に行って、鷹山の兄と父の話をしたのは、兄と父が地域の有名な改革者であり、ぼくのカンですが、「この父と兄の影響が鷹山改革にもかなり影響を与えている」という気がしたからです。

「江戸と宮崎の距離を考えれば、そんなことはないだろう」とお思いになるかも知れません。ところが、それがあるのです。

なぜ、あるのか? 二人をつなぐのが、「参勤交代」です。参勤交代は、徳川三代目の将軍・家光が確立した制度で、「大名は、隔年に江戸に来て、江戸城に勤務すること」と命じました。これが、「参勤」です。そして、この義務年限が終わると、今度は領地に帰って、「藩主としての行政」を行なうのです。これが、「交代」です。よく一概に、「参勤交代」と言っている人がいますが、参勤と交代は別の制度です。

民に役立つ情報は共有する

この参勤と交代のために、各大名は江戸に藩邸を設けました。家光はさらに、「大名の妻と相続人は必ず江戸に居住すること」と定めました。つまり、参勤と交代は、「大名自身の徳川家に対する義務」であり、その妻子の江戸居住は、「人質として江戸に住まわせる」ことです。家光の時代が始まったのは、関ヶ原の合戦からすでに20以上年も経った頃ですが、それでも徳川の将軍は、大名(特に外様大名)を信用しなかったのです。そして、この制度は、幕末まで行なわれました。幕末に、一回だけ熊本の横井小楠の提言によって、廃止されたことがあります。しかしすぐに、「幕府の伝統と権威に関わる」と考える幕吏によって復活されました。

ですから、高鍋藩秋月種茂も、隔年には必ず江戸にやって来て、江戸藩邸から江戸城に登城する暮らしを続けたのです。こういう時に、上杉家の養子になった弟が、藩政改革に苦労している様を観れば、黙っているはずがありません。

「松三郎よ(秋月家における鷹山の名)。今晩、家に来ないか」と誘います。そして、「私は今、こういう改革をしているよ」と、自分が高鍋藩で行なっている改革の内容と方法を、懇切丁寧に弟に教えなかったとは限りません。ぼくは、教えたと思っています。

鷹山の改革は、他にも熊本藩・細川重賢〈ほそかわ・しげかた〉のそれを、かなり情報としてもらっていたと思います。伝え手は、重賢のブレーンであった秋山玉山〈あきやま・ぎょくざん〉だと思います。というのは、秋山玉山と細井平洲先生は大変仲の良い朋友だったからです。秋月種茂が弟の鷹山に、「今、こういう改革で成功しているよ」、あるいは「失敗してしまったよ」などと話すのと同じように、秋山玉山先生が平洲先生に、「細井先生、うちの主人・重賢公は、改革には必ず教育が必要だとおっしゃって、藩校を再建したよ。学長には私が命ぜられた」などと話すのは当然のことです。江戸時代は、「秘密の時代だ」と言われますが、それは、"つながりのない社会"のことです。つながりさえあれば、どんなことでも必ず、お互いに、「情報を共有する」特に、「民に役立つ情報はなおのこと、共有する」といっていい時代だったと思います。

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