平洲塾170 平洲先生と尾張藩

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ページ番号1004528  更新日 2023年2月20日

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尾張藩と縁の薄かった平洲先生

東海市さんのご熱意とご厚意によって、東海市出身の細井平洲先生とは、かなり密接なおつきあいをさせていただいていますが、私の頭の一角にずっと一つの疑問がこびりついています。それは、「あれほど有名な平洲先生が、なぜ身近な、しかもご自身が属する尾張藩から、若い時代に招かれなかったのだろうか」ということです。もちろん、平洲先生も人間ですから、藩が望もうと望むまいと、「わしは、尾張藩には行きたくない」という気持ちがあったのかも知ません。それはそれで仕方がありません。が、私の頭は、「そうではないだろう」と囁〈ささや〉きます。悪魔のささやきかも知れません。しかし、今と同じように当時でもある種の学統の流れがあって、これが学者たちに一種の派閥を作らせていたことが想像されます。学統が違えば、やはり自然にできたゾーン(圏)内で生きることが望まれます。つまり、幕府の大学や、各藩(大名家)の藩校などで招く学者も、今いる学者さんの学統の枠の中で論議されるのが普通なのです。言ってみれば、〝学閥〟があって、その閥外の研究者はお呼びでない、ということも起り得るわけです。平洲先生が、尾張藩に招かれなかったのも、そういうことに原因があったのかも知れません。

もちろん、時期の問題もあります。尾張藩が平洲先生の存在を知っていて、「是非、わが藩にお招きしたい」とは思っても、その頃、平洲先生が長崎や京都におられて、その要望に応えられないという物理的な問題もあります。

生活者を大衆から公衆に進化させる

当時の学者さんたちは、故郷ではなく江戸に集まることが多かったのです。学問の世界も、今でいう〝江戸への一極集中〟があって、それぞれ江戸市内で塾を開き、自分の学説を世の中に問います。門人たちは、それぞれ自分の将来を考え、あるいは理念的な角度から、「あの先生に学ぼう」とか「この先生がいい」とかの選択をします。

当然、江戸にいた平洲先生もその選択の対象になっていたでしょう。そのことは、同時に、関心さえあれば、学問の分野における相当細かい情報を、人々がすぐ手にする事ができたという意味です。その情報の中には、先生たちに対する評価も入ります。

「あの先生は素晴らしい」とか、「あの先生は、ハッタリとパフォーマンスばっかりだ。やめた方がいいよ」などという風評は、当時も当然あったはずです。

平洲先生は、何遍か繰り返すように、「両国橋の袂〈たもと〉で、大衆芸能家たちと一緒に話をした」という、庶民生活者を相手にするほどの砕けた学者でしたから、そういうやり方を、「学者と言えない」あるいは、「そこまで砕かなくても良いのではないか」と、話の内容や話法に対し、批判を加える人も当然いたに違いありません。が、平洲先生は平気でした。

そんなことは百も承知のうえで、両国橋の袂に立っていたからです。平洲先生が何よりも大切にしたのは、生活者です。それも庶民です。まれに、武士の聴き手もいましたが、多くは庶民大衆です。

この頃、しきりに思うのですが、平洲先生の話をする根底には、やはり、「江戸の生活者たちの意思を、大衆から公衆に変えたい」という念願があったように思えます。

そして、当時平洲先生がやがて尾張藩に招かれ、しかも、すぐに藩校の塾長にまで地位が上がって行くのも、それなりのニーズ(需要)が尾張藩にあったからでしょう。このことは、何れ触れさせていただきます。

尾張藩祖の生母は、鷹山の生家の出身

今年の東海市主催の私の講座(「童門冬二の嚶鳴講座」年4回開催)では、このことをテーマにして話を組み立てています。9月22日第一回の講座が開催されましたが、最初に扱ったのが、尾張藩の始祖である徳川義直のことでした。資料を調べているうちに、まず初っ端〈しょっぱな〉から妙な因縁を発見しました。

平洲先生が、儒学を通して、「人間の生きる正しい道」だけでなく、「藩政改革の実際」についても指導した大名に米沢藩九代藩主の上杉鷹山がいます。誰もが知っている、「なせば成る 為〈な〉さぬはならぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」という名言で有名な人物です。この言葉は一言でいえば、「物事を企〈くわだ〉てて、成功しないのは、本人にやる気がないからだ」というにべもない突き放しの言葉です。しかし、鷹山は心の温かい優しい人物でしたから、かれがその事を言っても、「何であんな冷たいことを言うんだ」と怒る受け手はいません。みんな素直に、「確かにその通りだ」と、頷き自分でも実行しています。

鷹山の出身は、九州の日向国(宮崎県)高鍋藩(現在の高鍋町を中心とした藩)です。高鍋藩主の秋月家に生まれました。次男坊でした。長男は種茂〈たねしげ〉と言って、この人もまた藩政改革では多くの実績を挙げていました。 (つづく)

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