平洲塾163 人のつながり 平洲先生の遠祖 その1

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ページ番号1004535  更新日 2023年2月20日

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平洲先生と高鍋藩との意外な関係

宮崎県高鍋町〈たかなべちょう〉に行って話をしてきました。高鍋町ははじめてではありません。30年以上前に一度、さらに5年ぐらい前に再度おじゃましています。話は何といっても、「上杉鷹山の改革」についてです。いうまでもありませんが、江戸時代の高鍋藩秋月家は、鷹山の生家でした。鷹山はこの家から出て、請われて米沢藩主上杉家の養子になり、有名な改革を実行したのです。東海市出身の細井平洲先生は、その改革の指導にあたりました。

ぼくは子どもの時から歴史が好きですが、歴史への関心を寄せる時の一番大きな導因は、何といっても、「人とのつながり」です。関心を持つか持たないかは、やはり、「その人あるいは土地と、こちら側が今関心を持っている人物とつながりがあったか無いか」という事が大きく影響します。今回のテーマでいえば、本当なら、上杉鷹山よりもむしろ、東海市に関わりの深い細井平洲先生と高鍋藩の藩主であった秋月家とのつながりがあれば、これに越したことはありません。このコーナーを読んでくださる皆さんにとっても、「ほう、そんなつながりがあったのか」という事実が示されれば、きっと興趣を増してくださると思います。

ところが、ありました。ぼく自身もはじめは、「まさか」と思っていたのですが、本当にありました。

平洲先生は、時々、「紀徳民」と名前を書いておられます。紀というのが平洲先生の本姓で、細井家の遠祖の「紀長谷雄〈きのはせお〉」から取ったものです。つまり平洲先生は、「私は紀長谷雄の子孫だ」という意味なのです。

この紀長谷雄は、藤原時代の有名な学者ですが、この長谷雄の師が、秋月家の遠祖である大蔵氏の大蔵善行〈おおくら・よしゆき〉なのです。

大蔵善行は、文学者として名高く、漢学(経学)にも造詣の深い人でした。詩文にも長じていたといわれます。延喜〈えんぎ〉元(901)年、時の天皇の命によって藤原時平〈ふじわらのときひら〉らと共に『日本三大実録』をまとめました。また、「東宮学士」として、17年間、皇太子の侍講〈じこう〉を務めました。さらに、多くの弟子の指導と文化の進展に目覚ましい功績を残しています。

鷹山の師である細井平洲先生の遠祖・紀長谷雄は、この大蔵善行の門弟の中でも特に優れていた人物だといわれます。

遠祖は、漢の高祖

ぼくが今回、高鍋町に行ったのは、上杉鷹山の実兄であった高鍋藩7代藩主・秋月種茂〈あきづき・たねしげ〉とその父・種美〈たねみつ〉の話をするためです。準備として、まず秋月家とはどういう家柄だったのかを調べました。高鍋町から、資料を送っていただきました。それによると、秋月家は中国の皇帝・漢の高祖の末裔で、同家の家譜に、「秋月氏は漢の高祖より生ず、高祖の後裔〈こうえい〉を霊帝〈れいてい〉、霊帝の曾孫を阿知王〈あちのおう〉という。魏〈ぎ〉の乱を避けて本朝に帰化す」と書いてあります。

つまり、秋月家の遠祖は古代中国からの日本への帰化人であり、その初代を、有名な「阿知使主〈あちのおみ〉」としています。応神天皇の時に、その子「都賀(加)使主〈つかのおみ〉」と共に、古代中国の17県の民〈たみ〉を率いて日本に来ました。漢の文化を伝える部族として、日本の朝廷から土地を与えられ、直〈あたい〉の姓〈かばね〉(爵位)を授けられました。貴族として遇されたのです。それから1600余年間、一族からは優れた偉人・傑士・文学者など優れた人を出しました。一貫して、皇室に忠勤を尽くしました。数多くの名君も出ています。

帰化以来、新しい大陸の文化を移入し、日本の文化と産業に貢献しています。応神天皇の命を受けて、呉(中支)にわたり、縫織の工女を連れて帰り、日本の織物文化に大きな影響を与えたこともよく知られています。

第5代(掬〈つか〉)は、雄略天皇の時に朝廷に新設の「大蔵(出納)」の仕事をして成功しました。そのため、その功を賞されて、「以後、大蔵を姓とするように」と命ぜられました。そのため、秋月家の遠祖は、「大蔵」と名乗るようになりました。この分家が、鷹山を生んだ秋月家であり、また同族に「原田」あるいは「高橋」などの名族がいます。 (つづく)

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