平洲塾175 知多半島の特性(1) たくましい地域自治 その2

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ページ番号1004523  更新日 2023年2月20日

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知多半島の特性(1)

たくましい地域自治 その2

織田信長から徳川義直に至っても、知多半島の支配者には目立つ人物がいません。土地の豪族による支配(権限の地域化)だったのでしょう。戦国末期の知多半島は根元に小川という大名の城が記されています。関ケ原合戦の時に、はじめは石田三成に味方し、途中から家康の味方をした大名の中に、小川という名があります。同じ人物なのかどうか、まだ調べが済んでいません。義直時代には消えています。

結局、平洲先生の時代は尾張徳川家の支配管理が定着していた、と考えていいでしょう。

しかし、前に書いた知多半島の人々の生計の道である漁業と海運は、そのまま継続されていたのではないでしょうか。

現在の東海市は名古屋の入口にあり、経済圏としてはその中に入り、企業活動もトヨタ系の事業が多いと思います。信長時代の工業化やイノベーションを想起させるものがあり、必然的に住む人々も"都市的性格"を身につけたことでしょう。

漁業と海運で生きる住民

が、尾張藩政下の知多半島住民はどうだったのでしょうか。

ぼくの思いこみです。知多半島には、中央政治や尾張政治(いずれも大きな権力者による統一的管理政治)と、あまり関わりを持たない"自治"が行なわれていたのではないでしょうか。

もちろん、今の民主主義をあてはめることはできません。権力者の"国こぼし"です。"黙認"です。当然、"目こぼし"代や"黙認"料がいります。半島の実力者(豪族)にはそれができたと思います。漁業や海運による利益がそれを可能にする財力を生んだのです。

たとえば徳川家康の生母は刈谷〈かりや〉城主水野氏の娘です。松平郷の豪族松平広忠〈ひろただ〉の妻になり、家康を生みました。しかし、広忠は今川氏(駿河)と織田氏(尾張)の圧迫に押されて、どちらかに味方をせざるを得なくなりました。

「今川氏に味方しよう」と心をきめ、そのために家康の生母お大を離縁しました。怒った水野家では、お大をすぐ知多半島の豪族久松俊勝〈ひさまつとしかつ〉の妻に送りこみました。久松氏は海運と漁業の取りまとめを業〈なりわい〉としている大名(実際には豪族)でした。

竹千代と名のっていた少年家康は人質として今川家に送られました。人質といっても城の中に禁固されるわけではありません。屋敷をかまえて、仕える家臣もいます。家康には30人前後の家臣がいました。

この家康には、お大はしばしば金や物資の差し入れをしています。知多半島の久松家からです。 (つづく)

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