平洲塾174 知多半島の特性(1) たくましい地域自治 その1

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ページ番号1004524  更新日 2023年2月20日

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知多半島の特性(1)

たくましい地域自治 その1

平洲先生を育てた生活環境

前回に"知多半島の歴史"を知るためのガイド的なことを書かせていただきました。何のために? というお訊〈たずね〉があれば「地域に住む人々に与える影響」ということです。

具体的には、「知多半島と平洲先生」ということです。知多半島に生まれ、育った平洲先生が、尾張藩徳川家に学師として招かれた時にどういう気がまえだったのだろうか、ということをぼくなりに知りたかったのです。

織田信長の出現は尾張の歴史を大きく変えました。ぼくは、かれの天下(日本国)思想は、この地方に万葉以来の伝承である"あゆち思想(愛知県の地名の由来)"の実現ではないか、と仮定しました。理屈のきらいなかれは、そんなことは一言もいっていません。

しかし、口でいわなくても、実行した政治行政で、はっきりそのことを示しています。"生活の文化化による住民の幸福追求"です。

当時の戦国武将の習いとして、天下に志を持つ者は必ず京都をめざします。信長も尾張から美濃(岐阜県)、美濃から近江(滋賀県)の安土へと拠点を移します。岐阜も安土も人間にとっての桃源境〈とうげんきょう〉(あゆちの実現地)を意味します。

信長が横死したあとの政治理念は、豊臣秀吉が自分なりの加工を加えて引き継ぎます。

乱暴な分け方ですが、今の愛知県は古代からの区分である尾張国と三河国を合わせたもので、尾張国は清州・名古屋の大都市を擁〈よう〉するので、信長や秀吉の性格には"都市的要素"が強いと思います。

対する徳川家康は三河出身ですから、三河地方の"農民的要素"が強い気がします。家康が開いた幕府の運営は、農村のやり方をかなり取りこんでいます。年寄り(庄屋や名主)の合同会議(老中による合議制)は、その大きな例です。

"あゆち思想"は徳川時代に入って、初代の尾張藩主徳川義直〈よしなお〉(家康の九男)によって、"蓬左〈ほうさ〉思想(蓬莱宮〈ほうらいきゅう〉の左側にある地域。蓬莱宮は桃源境での住民の信仰対象の社〈やしろ〉。義直は熱田神宮〈あつたじんぐう〉をそう考えた)に地域化されました。

しかし、住民を幸福にしたい"あゆち"思想の枠外に出る考えではありません。

(つづく)

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