平洲塾157 不易流行のこと(2)
平洲先生の不易
前回紹介した、松尾芭蕉のいう「不易と流行」とは、つまり、「現在は、現実の照射のように見えても、何年も経つといつの間にかその照射が消えて、その時は流行だと思ったものが真実に変わっている」ということです。ということはもっと指導者としての芭蕉の弟子に対する態度として、
- 流行の句を作ってもよい。
- その時は、その流行の句が人々を楽しませるだろう、喜ばせもするだろう。
- しかし、その時の時代相が変わったからと言って、時代と共に消え去るようなものは本物ではない。
- 時代相が次々と変わっても、その句は消えることなく、知らないうちにいつの間にか不易世界に入り込んで残っている、というようなものでなければならない。
ということなのです。
これは難しい要求です。芭蕉が言うのは、「たとえ流行の句を作っても、それはやがては不易の分野にキチンと座を占めるようなものでなければならない」ということです。もっとしつこく言えば、「一過性の流行を目的とするような句は作るな。流行に乗ったような句を作っても、それはやがては不易の句として永遠に残るようなものを詠〈よ〉め」ということだろうと思います。
ぼくは細井平洲先生の講話が、「誰にでもわるような優しい言葉で身近なことを素材にしていた」と書きました。その方が親しみ易いからです。誰もが、(ああ、自分にも先生がお話になっているようなことを経験したことがある)と思えば、先生の講話により親しみを感じ、(先生は、その経験をどう解決なさったのだろうか?)という、関心が湧くからです。
この関心が湧くというのも、先生の講話への接近に距離を縮める大事な要素だと思います。つまり先生の講話の手法としては、「まず、現実に即したこと(流行)を素材とし、その解決法を話しながら、解決法がやがては“真理"の域の到達すること」ということを目指しておられたと思うのです。
事実(現実)と理想(真実)
つまり、芭蕉流に言えば、
- まず「流行(現実)」の話をする。
- しかし、その現実に対する対処方法が、いつまで経っても古びずに廃〈すた〉れない。
- そして気がついた時には、その現実対処法が「真理」という永遠性を持った考え方に変わっている。
ということではないでしょうか。
平洲先生が話されることの底には、明らかにこの「不易と流行」の二つの要素があったと思います。そして、芭蕉が言ったように、「流行が、いつの間にか不易の分野で重要な座を占めている」というような結果を生んだのです。
ぼくは、マイクの無い時代に多くの聴衆が先生の話を理解し、感動し、涙を流したということは、この、「一見流行(俗話)に見える話が、実は重くて永遠性のある真実を伴っていた。先生が話したのはあくまでも真実であって、流行ではない。流行というのは、その話を理解してもらうための一つの方法だったのだ」と思っています。
この考え方が、先生の独特なもので、しかし、実をいえば、「先生の、その時の全人生を懸けていた」と言っていいと思います。俗な言葉を使えば、先生は砕〈くだ〉けたわかり易い話に、「全生命を懸けていた」つまり、“命懸けで話していた"ということなのです。その迫力が、オーラとなり風度となって、聴く人々の胸を打ったのです。 (つづく)
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