平洲塾145 尾張藩の改革と平洲先生の役割(1)

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ページ番号1004554  更新日 2023年2月20日

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むずかしい尾張藩の財政難

7代目の尾張藩主徳川宗春〈むねはる〉は、あくまでも、「現将軍八代徳川吉宗の政策に真っ向から反対する」という態度を貫きました。吉宗の政策は「国民の精神改革」にも及んだために、基本は「倹約」です。宗春はこれに反対し、「治者の役割の一つに、被治者の富の増進がある」と主張しました。かれは、わかりやすい言葉で、このことを、「そのためには、治者は富を川の上流から下流へ流すようにしなければならない。下流でそれを受け止めた民〈たみ〉は知恵を働かせ、さらにそれを倍増するように励〈はげ〉む」という考えを持ちました。それを実行しました。具体的には、それまで静かだった庶民文化を大いに振興したことです。
したがって藩の財政は、この「庶民文化(娯楽)振興費」が大きな支出科目になりました。そしてこの「庶民文化振興費」は、そのまま「風俗解放策」につながりました。つまり、いろいろな縛りに合って縮んでいた庶民の気持ちを開放し、自由にしたことです。したがってこの解放に際限がなくなると、もともと自由を求める人間、特に若い人たちが奔放〈ほんぽう〉になります。風俗解放によって、風俗の悪化が発生してしまうのです。
したがって宗春の後を受けた、8代目の宗勝〈むねかつ〉と、9代目の宗睦〈むねちか〉は、宗春によって生じてしまった尾張藩の財政悪化の是正と同時に、この、尾張藩民の「風俗悪化」の抑制と、さらにその良化に努めなければなりませんでした。
細井平洲先生は、この「風俗の良化」に貢献すべく、藩に招かれたのです。
平洲先生が仕えた直接の藩主は徳川宗睦ですが、実際に先生を招いたのは宗睦の下で国奉行を務めていた人見弥右衛門〈ひとみやえもん〉です。人見は、宗睦の世子〈せいし〉(相続人)治休〈はるよし〉の侍読〈じどく〉(学問の先生=侍講〈じこう〉)をつとめていました。学者です。しかし宗睦の信頼が厚く、改革の総指揮を執る国奉行のポストに就きました。この時人見は宗睦に、「この度の改革は、財政の再建もございますが、同時に藩民の精神の再建もございます」と進言しました。宗睦は賛成です。そこで、「そういう役を負ってくださる学者先生がおられるか?」とききました。人見は大きく頷〈うなづ〉き、「領内の平島村〈ひらしまむら〉(現在の東海市)出身の人物で、細井平洲先生がおられます」と応じました。宗睦は、平洲先生の名を知っていました。そこで大きく頷き、「ああ、細井先生なら適任だ。すぐお招きするように」と人見に命じました。

心の赤字克服を平洲先生に期待

ここで藩主の宗春・宗勝・宗睦の在任期間を書いておきます。
まず宗春は享保15(1730)年から元文4(1739)年まで。宗勝は元文4年から宝暦11(1761)年まで。宗睦は宝暦11年から寛政11(1799)年まで。宗春は足掛け10年の治政であり、宗勝は足掛け23年、そして宗睦は足掛け39年になります。
現在の地方自治体の首長の任期にあてはめると、宗春が約2期半、宗勝は6期弱、そして宗睦は10期弱になります。ここでふっと思うのですが、やはり江戸時代に“名君"と呼ばれた人の在任期間は、相当長かったと言わざるを得ません。それだけの任期がなければやはり自分の思うような理想的な仕事ができなかったということでしょうか。現在は、スピード時代でITも発達していますから、ここに書いたような藩主たちの任期は当然、長期政権だ、堕落する」と言われることでしょう。さて、尾張藩の治政の特性は、藩祖の義直以来、「農を大事にする」というものでした。そして藩民に求めるのは、「質実剛健で、人の模範になるような良俗を目標にする」ということでした。宗春の治政は、たしかに藩民の人間としての自由を取り戻させ、また風俗的な文化を高めたという点では、大きな功績があります。現在でも、「名古屋の繁盛は、宗春の治政が元になっている」という人がたくさんいます。しかしこの現象は、藩祖義直や歴代の藩が守って来た、「尾張藩の特性」に必ずしも適合するものではありませんでした。逆に破った面もたくさんありました。そして、財政的にも、宗春のいう、「川から流した藩の富」が多額に及び、アフター宗春を担当する藩主にとっては、かなり大きな重荷〈おもに〉になりました。特に宗睦は、単に藩の財政の赤字を処理するだけでなく、人見がいう、「藩民の心の赤字」を黒字に換えようと努めた人です。勢い、「藩民の精神復活には、何といっても優れた学者の指導が必要だ」と考えました。そのために人見の推薦によって、平洲先生をその任を委〈ゆだ〉ねたのです。平洲先生も、こういう点にかけては人後に落ちる人ではないので、喜んでその任を受け止めました。だからといって平洲先生は特別な講義方法を展開したわけではありません。江戸の両国橋のたもとで行なっていたように、いわゆる、「大衆講義」を展開しました。 (つづく)

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