平洲塾148 尾張藩の改革と平洲先生の役割(4)

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ページ番号1004551  更新日 2023年2月20日

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改革責任者・人見弥右衛門の改革方針

話がくどくなりましたが、「尾張藩の藩政改革」を担当した、人見弥右衛門〈ひとみ・やえもん〉は、この考え方の実行者でした。もちろん人見は藩主徳川宗睦〈むねちか〉に抜擢されて、「藩政改革の実行責任者」になったわけですが、だからといってかれは今まで通りの改革をそのまま実行しようとしたわけではありません。根本的に彼は、「今、尾張藩が置かれている立場と、行政・財政状況の実態」を徹底的に調査して、資料を集めました。その上でかれは、今でいえば、「施策を実行する機関(藩庁)の組織、特に現場における組織がこのままでいいのか?」という大きな疑問を持ちました。かれが感じたのは、その頃の尾張藩の役所が、「事業別に分けられている」ということでした。たとえば、山林の担当は山林奉行、水の担当は水奉行、田畑や野の担当は野方奉行などという分類です。これは人見から考えると、「事業別なタテワリの担当であって、タテワリ間の連絡調整が全く行なわれていない」ということでした。そこで人見はまず、「このタテワリ分担をヨコワリに変えよう」と考えました。タテワリをヨコワリにするということは、「仕事を事業別ではなく、地域別に分けよう」ということです。地域別に分けるというのは、今でいえば地域別に行政のセンターをつくって、そのセンターに行けば住民にとって必要なことの対応をほとんどやってくれるということです。今の自治体でも、地域別にセンターがつくられ、戸籍・税務・国民健康保険や介護保険などの仕事が、一か所で処理されているのと同じことです。人見が考えたのは、「尾張藩民が、そこに行けば大体の需要が満たれるような役所」をつくる事でした。すなわち「所付〈ところづけ〉」をつくるということです。はっきり言えば、「事業別を止めるからといって、その事業(施策)を廃止するのではなく、継続してその仕事を行なうが、行なう場所を一か所にまとめる」ということでした。

部分でなく全体に関与する平洲先生

実をいえば、こういう構想が果たして是か非かを、人見は細井平洲先生に相談しています。平洲先生は、すでに出羽国〈でわのくに〉(山形県)米沢藩で、他国から入って来た養子藩主である上杉治憲〈はるのり〉(号は鷹山)のために、改革指導書を書いて、その実験をつぎつぎと進めている頃でしたから、人見の言うことをよく理解しました。平洲先生にとって、米沢藩の改革指導も、尾張藩の改革指導もそれほど差はありません。差がないというのは、平洲先生が改革の根本理念においているのはいつも、「まず民〈たみ〉のために」という前提があったからです。平洲先生は孟子〈もうし〉の、「民を貴〈とうと〉しとなす」という根本理念を大切にしていました。ですから、人見が今、手を付けようとする尾張藩の改革も平洲先生は、「改革は勿論尾張藩のためにも行なうが、根本は尾張藩民のために行なうことが大切だ」と思っていました。人見は賛成です。かれも儒学者でしたから、平洲先生の主張がよく分かります。そして、「そういう考え方を、まず改革実行者である尾張藩の武士たちに植えつけなければならない。同時に、尾張藩民にも理解させる必要がある。それには、そういう心の受け皿を用意しなければならない。その受け皿を藩士の一人ひとり、藩民の一人ひとりが持つことを、平洲先生の講釈によって得てもらいたいのだ」ということです。
よく言われることですが、「改革には三つの壁がある」という定説があります。三つの壁というのは、

一 物理的な壁(モノの壁)
二 制度的な壁(しくみの壁)
三 意識の壁(心の壁)

です。人見が今、考えている、「事業別な役割分担を止めて、地域別にする」ということは、事業別における“タテワリ"を、地域という“ヨコワリ"にしようということですから、これは三つの壁の一と二を壊すことになります。しかし、壊す場合には、「そんなことは嫌だ」と否定したり、「今のままでいい、おれはあくまでも今の制度を守る」というような、頑強な反対者がいます。つまり心に固い壁を持った連中です。この連中の心の壁を壊し、もっと風通し良く新しいことを理解させるためには、「意識改革」が必要です。人見が平洲先生に期待したのはその、「藩士並びに藩民の意識改革」なのです。しかし平洲先生はそう言われたからといって、「平洲先生は、その意識改革をご担当願います」という依頼に応えるだけでは済ませませんでした。平洲先生は、自分の担当する意識改革が、「藩政改革の一分野」であることを知っています。つまり、総体的な藩政改革というマクロな存在の、1パートを担当するということになります。が、いつも身近なところに存在する人間の問題を発展させて、「これは全人間の問題だ」というような問題把握の方法を重く見ている平洲先生は、人見の示す、「藩士藩民の意識改革」だけを自分の仕事だとは考えませんでした。つまりマクロな問題の1パートを示すミクロな問題として捉えなかったのです。平洲先生は常に、「すべてマクロ(全面)を捉え、自分の担当するミクロな分野がそのマクロな分野とどういう関係を持っているのか」ということを徹底的に追及します。そのことは、平洲先生が担当する「人間の意識改革」についても平洲先生にすれば、「尾張藩の改革の理念・目標・そして改革の内容それが実現された後に民が得る幸福観がどの程度のものなのか」ということを知らなければ、自分の担当の仕事に手が付かないのです。一言でいえば、「この改革は、尾張藩民を幸福にするのか不幸にするのか」ということと、「改革の進行上、藩民の負担がどの程度のものなのか」などということを知らなければ、平洲先生は自分の担当仕事について手が出すことができないのです。いってみれば、「自分の担当の仕事を遂行する上において、まず改革の全貌を把握しなければならない」という気持ちがありました。 (つづく)

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