平洲塾146 尾張藩の改革と平洲先生の役割(2)

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ページ番号1004553  更新日 2023年2月20日

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改革はひとりひとりが身近な場所で

尾張藩9代藩主の徳川宗睦〈むねちか〉は尾張藩にはじめて「藩校明倫館〈めいりんかん〉」を創設した人です。おそらく人見の進言によったものだと思います。平洲先生は、ここの督学〈とくがく〉(学長)になりました。しかし、藩校明倫館で行なう講義だけでなく、得意な廻村講話〈かいそんこうわ〉を積極的に行ないました。領内の村々を歩いては、やさしくわかりやすい講義を行なうのです。特に選んだテーマが、五倫五常〈ごりんごじょう〉です。
五倫は、父子の親〈しん〉・君臣の義・夫婦の別・長幼の序・朋友〈ほうゆう〉の信
五常は、仁・義・礼・智・信
のことで、ともに儒教が教える人のあり方のことです。
平洲先生は、その、「人間としての生き方」を身近なところに起こった例を取り上げながら、独特の愛情に満ちた話を組み立てました。そのために、口コミで伝え聞いた人々は場合によっては仕事を休んで聴きに駆けつけました。すごい効果があったと言われます。単に話を聞いただけでなく、「平洲先生に教えられたことを、住んでいる場所で実行しよう」という気持ちを起こした人がたくさんいます。その中には、貧しい農民だけではなく、金持ちの地主や商人もいました。かれらは相談して、「貧しい人々の暮らしが少しでも良くなるような施設を作ろう」と合意しました。農民にとって一番大事なのは何といっても「水」の保全です。よい水が安全・安心に保たれていなければ、農事は成り立ちません。そこで金持ちたちは、「安定した水が供給されるように、河川の改修を行なおう」といって、領内を流れる庄内川〈しょうないがわ〉の普請〈ふしん〉からはじめました。かれらはこの普請を、「御冥加普請〈ごみょうがふしん〉」(神仏の加護による工事)と名づけました。平洲先生は、この「御冥加普請」に積極的に参加しました。自分だけでなく、門人やあるいは自分の話を聞いて感動し、「先生、ぜひこの工事にはわたくしも参加させてください」と申し出る人々とも手を組みました。平洲先生はこの工事に参加する者は、「大きくいえば“志"を同じくする同志なのだ」と、平等に扱いました。というのは、平洲先生は「御冥加普請」の中に、次のようなことをいくつか発見していたからです。

  • 御冥加普請は、これに参加することによって住民たちの協同の心が生まれる。
  • 協同の心は、その地域のことはまず自分たちで出来ることからやってみようという“自治の心"を湧かせる。
  • そのことは、「自分さえよければいい」という考えを捨てさせる。
  • 生きているのは自分だけではない。同時に、自分一人では生きられない。必ず他人の力が必要になる。
  • 「御冥加普請」は、その「自分だけで生きているのではないという自覚」を生ませ、「必ず他人の力が要る」という反省心を生ませる。
  • 「その反省の心」が、今度は「他人の役に立とう」という積極的な気持ちを生ませる。
  • これは儒教でいう「譲〈じょう〉の心」であり、その譲の心を湧かせる「恕〈じょ〉の精神」になる。
  • これが村の発展に大きな活力になる。

ということなのです。

協同心の培養

ですからこのことは、平洲先生がいつも両国橋のたもとで説いていた事であり、また同時に江戸で開いていた塾の門人たちに告げていたことでもありました。平洲先生は、所によってその特性を生かす話法を用いますが、その根はどこでも同じです。尽きるところは、「恕の精神を生かした、譲の気持ちの培養」なのです。キーワードはいつでも同じでした。ですから聴く人たちは、「わかり易く、涙が出て来るような感動を感ずる」という、共通の心を持つのでした。
この平洲先生の感じ方は、藩主徳川宗睦とその代理者として「国奉行」を務める人見弥右衛門の考えでもありました。宗睦・人見コンビによる改革は、組織的にはまず、従来の郡奉行〈こおりぶぎょう〉たちに任せていた地域行政を新しく、「所付代官〈ところづけだいかん〉」に変えて行ないました。藩内の土地は、藩主の収入地・藩士の収入地・寺社の収入地などに分かれています。収入先によって、支配者が違いました。いってみれば、「収入主別の代官」が置かれていたのです。宗睦・人見コンビはこれを、「収入主別ではなく、地域別とする」というように改めました。そうすれば、「収入主に適応するような施策ではなく、地域別にまとまった施策が行なえる」ということになるからです。藩祖義直の方針によって、尾張藩の年貢は、「四公六民とする」と定められていました。四公六民というのは、「藩の収入は四割とし、農民の収入を六割とする」ということです。年貢率が40%だということです。この方針は、幕末まで守られました。他の大名家では、大体五公五民であり、場合によっては六公四民の所がありました。ですから、尾張藩の年貢率は他国の農民からは羨〈うらや〉ましがられました。ここにも前に書いた、「尾張藩の政策は、『農』を大事にしていた」ということがよく分かります。
地方支配の奉行にしても、それまでは山方奉行・野方奉行・水奉行などのように、「仕事別に支配する」というタテ割り方式でしたが、それらが全部廃止されました。すべて「所付代官」が扱う様に変わったのです。こうなると、施策の総合性が生まれ、全般を高いところから見ることができますから、「この施策はもっと力を入れるべきであり、この施策は当面緩やかにしてもよいのではないか」という、いわば、「施策本意の検討と選び方」が可能になります。いってみれば、「政策の本来的な検討」が可能になるのです。 (つづく)

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