平洲塾149 廻村講話〈かいそんこうわ〉その1

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ページ番号1004550  更新日 2023年2月20日

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管理者(奉行)を現地に住ませる

尾張藩の改革推進責任者の人見弥右衛門〈ひとみやえもん〉は、今までの藩政が事業別であったのを所(地域)別に変えました。そしてこの時、人見は所別の管理を命ぜられた役人に対し、「必ず担当地域に住むように」と命じました。これは画期的な人事方針です。しかし前にも書きましたが人見はもともとは学者です。江戸にいました。藩主徳川宗睦〈むねちか〉の息子の学問指導を行なっていました。江戸は、いろいろな学者の集まる所です。ですから、それぞれの学者が唱える説を自分の学説展開に採り入れます。この頃学者間に一つの指標がありました。それは荻生徂徠〈おぎゅう・そらい〉という学者が唱えた、「武士は必ず知行所に住んで、自ら鍬〈くわ〉を振え」というものです。これは、「武士よ、土に帰れ」ということでもあります。その頃の武士は、知行所を持っている者もほとんどが在所に帰ることなく、江戸にいて知行所の管理や年貢の徴収などは管理人に任せていました。徂徠は、「そんなことで、年貢を納める農民の汗とあぶらの苦しみが分かるか」という考えを持っていました。ですから、「武士は、知行所に住んで自ら鍬を振うべきだ」言葉を変えれば、「自分たちの生活の資である年貢がいかに苦労して生産されるかを、自己体験せよ」ということなのです。この説が、多くの学者の共鳴を得ました。武士の中にも、「それは正しい」と思う者もいました。ですから人見が、所別役人たちに対し、「必ず、管理する地域に自ら住むように」と言ったのも、ある意味では、「自分の給料の出場所を認識し、年貢を納める農民たちの苦労を自分のこととして体験せよ」ということでもあったのです。これも、従来の慣習に慣れた城の武士たちにとっては非常に画期的な処置でした。ブーブー文句を言う者もいました。特に、在地奉行を命ぜられながらも、任地に一度も行ったことがなく、名古屋城内の机の前で仕事をしていた武士たちには、大変な生活変革になります。

平洲先生の役割は、武士と住民の心の改革

細井平洲先生の役割は、城の武士たちが人見の方針に対して異議を唱えず、むしろ自分の心を励まして所(地域)に赴く気持ちを持たせることです。従来の、慣れた生活ぶりを改めて、城や城下町に設けられた自分の居宅を離れ、住民のために任地に自ら住み込むという心構えを培〈つちか〉うことです。これもまた大きな、「城の武士の意識改革」になります。同時にまた、地域にあっても今までは管理者が城の中に居るので、地域出身の奉行の代行者や、その下役たちのイージーな仕事の仕方に慣れていたのが、突然、「今後、管理者(奉行)は、現地に住む」ということになったので、住民側にとっても大慌てでした。特にイージーなやり方に与〈くみ〉して、役人と協同して仕事を行なって来た連中にすれば、これは大変な変化です。そのため気持ちの上では、「面倒なことになった」と思う役人もたくさんいました。平洲先生の役割は、こういう連中の意識も変える事でした。前に、「改革には三つの壁がある」と書きました。しかしモノの壁やしくみの壁は、人為的に変えることが容易です。ところが、気持ちの壁、すなわち心の壁だけはなかなか壊したり変えたりすることが難しいのです。平洲先生の担当は、その一番難しい、「心の壁を破り、境目を失くす」ということでした。人見が狙〈ねら〉った、「事業別というタテ割りから、地域別というヨコ割りに仕組みを変える」ということを、心の面でもそのまま行なうということです。つまり心のタテ割りを壊し、ヨコ割りにして、互いの流通をよくするということです。

織田信長の改革と平洲先生

尾張の国には、かつて織田信長という英傑がいて、かれは商業を振興し、物の流れを滑らかにすることを考えました。そのために、新しく領地になった伊勢方面にあった、六十数カ所の関所を全部ぶち壊しました。信長は、「物流を妨げていた関所を壊すことによって、異なる地域に住む人々が今まで使ったことのない物を知ったり、あるいは食物にしてもそれぞれの地域地域の交流ができる」と考えたのです。そのためには関わりを持つ役人や地域の商人たちの意識改革が必要でした。信長は、関所をぶち壊すことによって強引にそれを実行したのです。平洲先生の役割もそれと同じことでしょう。長年の慣習に慣れた生活ぶりを一変させる改革を、人見は主導して行ないます。平洲先生は、「その改革に順応する気持ちを持つよう、精神的な指導をする」ということなのです。この仕事を引き受けた時、平洲先生は、「人見さんの、所別を管理する役人はその所に住み込むということを、私自身も実行しよう」と思い立ちました。平洲先生はそのために、

  • 尾張藩の武士や藩民に対する講義を、名古屋城に集めて集中的に研修を行なうことをしない。
  • そうではなく、自分の方から各地域地域に出掛けて行って、その地域を単位にした講義を行なおう。

と心を定めました。いってみれば、「廻村講話〈かいそんこうわ〉」を行なおうということです。村々を巡って、その村のお寺や庄屋さんの庭を借りたりしながら、その場を講義場として自分の考えを述べようということです。このことは初めて思い立ったわけではありません。出羽国〈でわのくに〉(山形県)米沢藩上杉家の改革を手伝っていた時に、平洲先生は精力的に各村々を歩いて、講義を行ないました。米沢城の武士の中には、「講義をするにも、各地域には学校になるべき施設がありません」と言いました。平洲先生は微笑みました。そして、「いや、藩民が学んでくれる場所はどこにでもありますよ」と応じました。武士は眉をひそめて、「先生のおっしゃる施設というのは何ですか?」と訊〈き〉きました。平洲先生は、「お寺の本堂や、縁側、あるいは名主〈なぬし〉さんの家の庭先などです。雨が降れば仕方がありませんが、お天気ならこういうところが青空を天井にした教場になります。学校の施設はどこにでもあるし、また何でも学校に成り得るのです」と言いました。武士はなるほどと感心しました。そして、この考え方が平洲先生の説を広める上で大きく役に立ちました。それは、平洲先生の講義を聴くために、お寺やお宮や、あるいは名主さんの縁側にやって来る人々が、「その気になれば、学問もどんな場所でも学べるのだ」と思ったからです。 (つづく)

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