平洲塾153 「改革は役人の仕事だ」が自分のことに

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ページ番号1004546  更新日 2023年2月20日

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藩民の参加意識

意識改革の火つけになったのは平洲先生です。平洲先生は、単に自分の話を聴く民〈たみ〉に涙を流させ、感動させただけではありません。その感動が、「藩を変えよう」という潮の流れに変わったのです。今まで、藩政改革などというのは、「お城のやることで、われわれは関係ない」というのが、藩民の考えでした。それがそうではなくなったのです。
「自分たちの考えも、藩政改革の中に入れてもらおう」という積極的な気持ちに変わったのです。その積極的な気持ちが、名古屋城内のチンタラ組に一つの武器として突きつけられはじめたのです。人見弥右衛門〈ひとみやえもん〉は満足でした。
(おそらく平洲先生の気持ちの底にも、そういう思いがあったのに違いない)と感じました。それは、平洲先生の安政改革参加は、すでに米沢藩上杉家において大きな効果を挙げているからです。平洲先生は、米沢藩主上杉鷹山に対して、「改革というのは、勇気です。勇気以外にありません」と激励しました。おそらく鷹山が展開するドラスティックな改革に対し、古い考え方にしがみつく武士たちが猛烈な反対をすることが予想されます。平洲先生は、「その反対に打ち勝つのも勇気です」と教えたのです。上杉鷹山は決して乱暴で凶暴な藩主ではありません。むしろ心優しい殿様でした。自分の家付き娘の妻が、重度身体障害者であったためもあるのでしょう。鷹山はその体の不自由な妻に限りない愛情を注ぎました。そして、自分が与えた男手による人形に、精神にも支障のある妻が鏡に映った自分の顔を映しかえるのを見て、(たとえ身体が不自由でも、この女性は自分のやりたいことについての能力を持っている)と感じました。顔を描こうとする欲望です。
もちろん、出来上がった絵は、立派なものではありません。しかし鷹山は、妻のその行動を見て、「人間は、やろうと思えば、何でもできる。出来ないことはない」と悟りました。これがかれの有名な、「なせば成る 為さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬなりけり」という、今も残る有名な励ましの言葉になるのです。尾張藩内の村々の変化は、人見が感じたとおりでした。人見は、平洲先生に嘘をついたり、あるいは誇大に世間の評判を告げたわけではありません。すべて事実なのです。平洲先生の方が、自分が話した言葉の反響が、そこまで素晴らしいものであったということは知らなかったかもしれません。あるいは知っていても謙虚な先生は、「実はこんな反響があったよ」などとは、自分からは決して口にしません。だからこそ、村々の農民たちが感動するのです。

庄内川改修を全民参加の教材に

平洲先生の廻村講話は、こういう効果をもたらしました。人見にとって得難い機会です。人見は直ちに懸案である、「庄内川の改修工事」にかかります。人見の考案した、「お蔭〈かげ〉工事」です。
お蔭というのは、やはり人間に対する超人的な恵みという意味でしょう。当時としては、やはりそういう存在に“お蔭をもたらすもの"を措定せざるを得ませんでした。よくその頃の人が口にする、「天の恵み」のことです。宗教家であれば、これが、「神や仏の恵み」というところです。しかし、儒学者である人見や平洲先生は、露骨にそういう存在を口にすることはしません。あらゆるものをひっくるめて、「人間の力を超える存在」として、「天」という言葉によって表したのです。人見弥右衛門の「庄内川の改修工事」は、単に、「川を整備する」ということではありません。根源的には、「川は、母なる存在であって、人間が必要とする食糧生産の源である」という自然観もありました。その背景には、平洲先生や人見が学んだ「儒学」の思想が存在しました。人見の案で、

  • 庄内川の改修は、単に防災上の改修ではなく、灌漑〈かんがい〉用水としても農村で十分利用できる目的を果たす。
  • しかし、改修には多額の金と、労力が必要になる。
  • 資金の調達は、藩政府だけではできない。したがって、これに参加してくれる資本家(富農・富裕な商人)の協力を期待する。
  • 労力は、農民はじめ非農民でも、ボランティア的な手助けを求める。

ということです。この時に人見が、「冥加」という言葉を使ったのは、それぞれが今保っている「生活の資金」が、「天の恵みによって得られている」ということを意味するものです。だから、「天の恵みに対して、恩を返す」という考え方です。ボランティアとして労力を提供する人々に対しても、「日々生存できるのは天の恵みによるものなのだから、その冥加を具体的な恩返しとして表す」ということです。別な角度から言えば、「資金や労力提供に対し、不平不満を言うことなく、天の恵み(冥加)に対する恩返しとして自主的にその意志を表明する」ということなのです。人見にすれば、「そういう意識を持つように、頭の構造を改革して下さったのが、平洲先生だ」という認識がありました。平洲先生が“廻村講話"でそこまで踏み込んだ、つまり目的を露〈あらわ〉にした話をしたことはないとおもいます。ただ、「人間が幸福になるためには、それぞれが相手の立場に立ってものを考えよう、という孔子のいう“恕の精神"を持つことは必要だ」という、一般的な話をされたと思います。しかしだからといって平洲先生は、人見弥右衛門の改革を頭の隅に全く置かなかったわけではありません。というのは、平洲先生の“廻村講話"も、明らかに、「人見案の尾張藩改革の推進を滑〈なめ〉らかにする」という副次的な目的を持っていたからです。 (つづく)

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