平洲塾144 平洲先生の代理に海保青陵〈かいほ・せいりょう〉

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ページ番号1004555  更新日 2023年2月20日

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すべて“代物"

細井平洲先生と、尾張徳川家の関係をもう少しわかり易〈やす〉いエピソードを探そうと思って、いろいろな本を当たりました。この当たり方が拡〈ひろ〉がって、ある時、目を見張らせるような事実を知りました。それは、尾張徳川家の藩校の歴史を漁〈あさ〉っていた時に、「尾張藩の儒者として、海保青陵〈かいほせいりょう〉を任命した」という記事に突き当たったからです。これには目を見張りました。今でいえば、飛び込みの“ビッグニュース"です。さすがのぼくも、これには、「まさか!」と驚きの声を上げました。というのは、海保青陵というのは、現在では、「江戸時代の経営コンサルタント」と位置づけられ、日本の国産品の中で“ブランド商品"を見つけると、かれは、「同じ品物を作っている小さな生産者は、このブランドの中に発展的解消をした方がいい」というような説を掲〈かか〉げて、全国を歩き回っていました。
青陵は、山陰のある大名の家老の家に生まれましたが、生まれつきこういう仕事が大好きで、旅から旅を続けました。そのため家督〈かとく〉は弟に譲〈ゆず〉り、自分は自由な身で、自由な考えを吹聴〈ふいちょう〉して歩きました。相手は、主として大名家の生産向上、あるいは経営改革などですが、民間の企業者にもいろいろと知恵と技術を説いて回りました。かれの有名な言葉に、「この世に存在する物は、すべて代物〈しろもの〉だ」というのがあります。代物というのは、「金に換〈か〉え得るもの」という意味です。ですから青陵のいうのは、「この世に存在する物は、すべてお金に換えられる」ということなのです。

青陵のドライで割り切った考え方

それは目に見えるモノだけではありません。精神的なモノも含めました。その典型的なモノとしてかれは、「主従における忠誠心も代物だ」と言います。つまり、「忠義の名において部下が主人に示す中身は、実をいえば労働だ。それに対し主人も対価として賃金を払うのだ」と、およそ実も蓋〈ふた〉もない忠義論を唱えました。今でこそ、主従の間に忠誠心などというものはなく、「労働協約で、昔の忠誠心と言われるものは、部下の社や社長に対する労働力提供だ。これに対し、社やトップは対価を支払う」という労働協約に整理されていますが、昔はもっと曖昧〈あいまい〉なもので、忠誠心は精神的にも美談として伝えられていました。青陵はそれをにべもなく、「忠誠心は部下の労働の提供だ」と言い切ってしまうのです。ですから、世の中に対する見方もこういうドライな割り切った合理的なものでした。ですから、「ブランド品なども、専有すべきものではない。もっとパラレル(一般的)なものだ」と言い切るのです。早く言えば、「ブランド品などパクれ」ということでしょう。しかし小さな生産者がパクることはなかなか難しいことです。そこで青陵は、「思い切って、大きなブランド生産者の中に飛び込んでしまえ」と言いました。方法として、「大きなブランド生産者に頼んで、自分の生産する品物もその中に加えてもらえ」ということです。しかし簡単な事ではありません。それを行なうためには、当時商事会社になっていた藩(大名家)の許可や協力がいります。また、流通を支配している大商人たちの承認や協力もいります。
ぼくは、大いに関心を持って海保青陵の年譜を調べてみました。次の記述があります。

  • 1801年(寛政13年・享和元年)
    尾張藩儒者細井平洲が大病に罹〈かか〉ったため、江戸に下って尾張藩の儒者となる。

最初に書いたようにぼくはこの記事に仰天〈ぎょうてん〉しました。
(あの海保青陵が、本当に平洲先生の代理になったのか?)と思ったからです。
前の回に紹介したように、徳川宗春の飛び込み的な吉宗への反抗はあっても、尾張徳川家は藩祖の義直〈よしなお〉以来、質実剛健の厳しい藩風をもって有名だった大名家です。そんな大名家に、「武士の忠誠心も代物だ」と言い放つ海保青陵が、本当に藩儒になったのか、と驚いたからです。
このころ、尾張藩の藩校明倫館〈めいりんかん〉を整備再建したのは、9代藩主の徳川宗睦〈むねちか〉です。宗春によってかきまわされた尾張藩政の再建に懸命でした。“名君"です。 (つづく)

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