平洲塾150 廻村講話〈かいそんこうわ〉その2

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ページ番号1004549  更新日 2023年2月20日

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細井平洲先生は、「難しいことを難しく表現しているのが今の学者だ。わたしは違う。難しいことを易しく砕いてわかり易く教えることをモットーとする。しかし、ある場合には、易しいことを易しく語って、聴く側の共鳴を得ることも大切なのだ」と考えていました。「易しいことを易しく語る」というのは、「わかり易い例をわかり易く語る」ということです。そうなると、その「わかり易いこと」というのは、多くの人々が知っているケースをテキストにするということになります。多くの人が知っている事と言うのは、やはり、「近頃起こった身近な事件」が一番適当です。
平洲先生の「わかり易い事件」というのは、殺人とか強盗とかいういわゆる人間の悪業のことではありません。平洲先生は、「人間には必ず胸の中に悪と善が住んでいる。しかし私が人々に語りたいのは、悪の方ではなく善の方だ」と決めていました。善の方だというのは、いわゆる“善行"を行なった人々の話を「実際に行なわれた善行」として扱うことです。具体的には、主人に忠誠心を尽くした忠僕や、あるいは説を貫いた妻、さらに地域のために私欲を一切表に出さずに、コツコツと善行を積み重ねた人などです。こういう例を平洲先生はたくさん知っていました。
平洲先生の“廻村講話"を聴いた人の多くは、「感動して涙を流した」と伝えられています。なぜ、聴衆がそれほど感動したのか。以下はぼくの想像です。

  • 聴いた人の大部分は、貧しくて子どもの時から農耕に従事してきた。
  • だから学問をしたくても専念できる十分な時間はとれなかった。しかし、“人間はどう生きるべきか、自分はどう生きるべきか"ということには、いつも関心を持ち、自分なりに求めてきた。
  • しかし、難しいことはわからない。難しい本を手にしてもなかなか理解できない。
  • そんな時に、たまたま平洲先生の話を聴いた。そのまま理解できた。つまり、今のままで話の内容が自分の血肉になった。

つまり、平洲先生の話は、聴くための予備知識の習得や予習は、全く必要なかった、ということです。田や畑の中からそのまま参加しても、“ありのままの姿"で理解できた、ということです。
話にしても、たとえば、「姑〈しゅうとめ〉にいじめられる嫁」といったような、どこの家庭にもある身近なテーマがありました。これもぼくの想像ですが、平洲先生はこのテーマを単なる「嫁の忍耐話」にしたのではなく、「忍従しながらも姑にも考えなおさせる、嫁の知恵と努力」というように組み立てたのだろうと思います。
米沢の時には、「優しく美しい心を持った嫁が、姑にどんな無理を言われてもそれに従い、はいはいと素直に従い抜いた」という、今でよくある“美談"でした。ところが尾張藩に来て新しい立場に立った平洲先生は、

  • 尾張の名古屋、大都市だ。
  • したがって、純朴な人々が住んでいる田舎とは違う。
  • 特に名古屋は、一方の眼で江戸を睨〈にら〉み、一方の眼で大坂を睨んでいる。
  • そのために、江戸や大坂という大きな都市に対する競争心もよい。
  • 特に、大坂の経済人に対し、名古屋人は名古屋人なりに大坂とは違った感覚で、商業活動を営む必要がある。
  • 江戸は、この国の政府(幕府)の所在地なので、そのことが江戸に住む人々に大きな影響を与えているので、これは参考程度に考えていいだろう。名古屋が意識すべきは大坂だ。
  • こういう考え方を持っている人々に、単なる美談を話してもあまり感動は読めない。特に、いま改革のために意識を変えてもらわなければならないので、その役には余り立たない。
  • したがって、話題にするテーマも、かなり吟味する必要がある。

平洲先生はそう考えました。ですから、「姑にいびられる嫁」というテーマを設定しても、平洲先生は話しの中に、「尾張の人々がなるほどと頷くような新味を加えることが必要だ」と思いました。そしてその新味は、

  • 嫁は単に姑の言うことに従わなかっただけでなく、思い切って家を出てしまう。
  • しかし、だからといって実家に戻って泣き言をいうのではなかった。
  • 嫁は旅をする。
  • それは、嫁という立場を離れ、一人の女性になった時に、自分はどう生きるのか、という“生きる場所を求める一人の女性"として扱う。

ということでした。ですから、平洲先生の話はこの嫁が、家を飛び出してからいろいろと出会う、難事に対し、一つ一つどう自分の才覚で対応して行くかという、「新しいタイプの女性の生き方」を語ったのです。この話は、農村で古いしきたりにがんじがらめになっている農家の嫁たちの目を見張らせました。彼女たちは耳を疑いました。そして、(平洲先生のお話は、こういうことだったのか!)とみんな驚きました。勇気を出して家を飛び出してしまった嫁が、新しい生き方として発見したのは、結局、「もう一度家に戻って、あの口やかましい姑さんに新しく仕え直そう」ということでした。旅の苦しい体験から、嫁もただ姑に従うことをやめ、思い切って家を飛び出てしまうという勇気ある行動者からさらに、「あの姑さんとも、折り合えることがあるのではないか。それを探してみよう」という、自分自身を変革した新しい人間に生まれ変わっていました。家に戻って、正直にそのことを話し家を出たことを謝罪し、「これから、新しい嫁になってお仕えいたします」という嫁を、姑は驚いた目で見つめました。が、その後の嫁の生き方は姑にとっても新しい発見でした。というのは、嫁は口やかましい姑の言うことを黙って聞いてはいませんでした。疑問に思ったり、承知できないことを言われると、「それはこういうことではありませんか。お義母さんのおっしゃることは、今の世間の常識とはかなりかけ離れていますよ」と言い返すのです。今までの家庭では、こういうことは許されません。つまり、「親や年長者の言うことに口答えをしてはならない」という定めがあったからです。しかしこの嫁はその制約というか、生活慣習を越えました。つまり、姑と嫁という一種のタテ割りの壁を壊したのです。新しい女性に目覚めた嫁は、時に姑に対し口答えをするだけではなく、「今の世の中に生きる姑の在り方」を、嫁の立場から頼みごととして伝えるのです。これによって、姑の考えも少しずつ変わって行きました。つまり、「今までの自分は、今までの仕来りをそのまま守って、姑のあり方、嫁のあり方を決めつけて来た。が、世の中はどんどん変わっている。そんな古い考え方がいつまでも通用するはずがない。自分も変わらなければいけない」と思うようになったのです。姑も決してバカではありませんでした。
これは一例です。しかし平洲先生の講義の底には、「改革を完成させるためには、藩民の一人ひとりが自己改革をまず行う必要がある」ということでした。そしてそのことは、大きくいえば、「大衆(モブ)から公衆(パブリック)に人間が自己変革する」ということでもありました。平洲先生にすれば、人見弥右衛門が指揮する尾張藩の改革は、「名古屋城の武士はもちろんのこと、領内に住む藩民の一人ひとりも変わらなければならない。人間が変わるということは、考え方を変えることだ」というものだったのです。そして、大衆から公衆に変わるということは、「お互いのために、生きていることを認識し合う」ということです。それは、言葉を変えれば、「自分のことばかり考えるのではなく、相手のこと、あるいは尾張の人々全体の利益を考える」ということでもありました。

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