平洲塾143 本当の暴れん坊は徳川宗春

Xでポスト
フェイスブックでシェア
ラインでシェア

ページ番号1004556  更新日 2023年2月20日

印刷大きな文字で印刷

暴れまくった尾張徳川家7代藩主

徳川吉宗と争って将軍になりそこねた尾張徳川家6代藩主・徳川継友〈つぐとも〉の後を継いだのが弟の宗春〈むねはる〉です。初入国のときに、全身黒装束〈くろしょうぞく〉で、黒い馬にまたがり、前方にやはり黒装束をした部下を歩かせ、その背に3~4メートルもあるような長い煙管〈きせる〉を肩に乗せて、スパ、スパとタバコを吸って入国しました。これには名古屋っ子も驚きました。
この異様な入国ぶりも、宗春にすれば無念を飲んで死んでしまった兄継友の霊を弔〈とむら〉うためであり、同時に政治工作によって将軍に成り上がった吉宗に対する意趣返〈いしゅがえ〉しだったと言っていいでしょう。
以後の宗春は、吉宗が、「享保の改革」として展開する諸施策の悉〈ことごと〉くに反対します。吉宗の改革の大きな柱はやはり「倹約」です。宗春はこれに真っ向から反対し、こういう説を唱えました。

  • 経済を成長させるのには、国家がまず金を使わなければならない。
  • つまり、経済というのは川のようなものであって、上が富を下流に流さなければ駄目なのだ。
  • わし(宗春)はそれを実行する。
  • 今、江戸の政策で、いろいろと倹約をしているが、名古屋では逆にする。

そう言って、江戸で吉宗が倹約を命じ、江戸町奉行の大岡越前守〈おおおかえちぜんのかみ〉がそれを受けて実行している政策を、悉く覆〈くつがえ〉しました。倹約政策によって、江戸では、吉原などの淋〈さび〉しくなった遊郭〈ゆうかく〉や、芝居小屋、あるいは花街などがバタバタ店を閉めました。宗春はこれらの廃業者たちを全部、名古屋に引き込みました。業者たちは喜びました。揃〈そろ〉って、「江戸が駄目〈だめ〉でも名古屋があるさ」と唄うように言いながら、喜んで名古屋にやって来ました。

死後も罰せられた宗春

宗春は、名古屋にやってきたこれらの歓楽業者たちに土地を与え、家を再興させました。また、長年尾張徳川家が市民に禁止してきた祭りやいろいろな行事を復興させました。宗春は、祭礼に神輿〈みこし〉や山車〈だし〉を名古屋城内にまで引き込んだと言われます。とにもかくにも、「吉宗政治には全て反対しその逆を行く」というのが宗春の方針だったのです。もちろん、こんな殿様にまわりを囲む家老たちはハラハラしました。何といっても御三家は徳川家の親戚です。
(こんなことをしていたら、必ずお咎〈とが〉めが来る)と、家老たちは心配します。それでなくても、現将軍吉宗とは将軍の座を争った尾張家です。吉宗の方にも、当然胸の底に何かの思いがあるに違いありません。虎視眈々〈こしたんたん〉と狙〈ねら〉っています。吉宗は「御庭番〈おにわばん〉の活用」で有名です。紀州から連れて行った家臣を、庭番という公職に降格し、その代わり自由な調査権を与えました。しきりに、「尾張徳川家の動向」を嗅〈か〉ぎ回っています。そして、御庭番たちは、嗅ぎ取った宗春の行状を誇大に報告しました。吉宗は怒り、やがて宗春に謹慎隠居〈きんしんいんきょ〉を命じます。宗春は、尾張藩主の座を追われます。そして、親戚筋から新しい藩主が着任します。宗春は無念の内に死んで行きます。
それでも吉宗の怒りは収まらず、宗春に対し、「先祖への墓参を禁ずる」と、生前に命じただけでなく、宗春が死んだ後も、「宗春の墓は罪人の墓である」と言い残したので、宗春の墓には長く金網〈かなあみ〉が被〈かぶ〉されたそうです。
普段、柔和〈にゅうわ〉で健康なスポーツマンで、また次々と市民のための政治を行なったことで有名な吉宗にすると、大変めずらしい行ないです。それほど、宗春の抵抗が激しかったということの裏返しかも知れません。
いまも早朝から“暴れん坊将軍"という吉宗をモデルにしたテレビが放送されていますが、本当の暴れん坊将軍は宗春だったのです。

より良いウェブサイトにするために、ページのご感想をお聞かせください。

このページに問題点はありましたか?(複数回答可)

このページに関するお問い合わせ

教育委員会 平洲記念館
〒476-0003 愛知県東海市荒尾町蜂ケ尻67番地
電話番号:052-604-4141
ファクス番号:052-604-4141
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。