平洲塾141 尾張藩での貢献(3)

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ページ番号1004558  更新日 2023年2月20日

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甥の光圀に諌められる

この伯父〈おじ〉の学究的態度に感動していたのが義直の弟頼房〈よりふさ〉の子光圀〈みつくに〉です。頼房は、家康の方針によって水戸徳川家の当主に据〈す〉えられました。頼房の兄頼宜〈よりのぶ〉は、家康から紀州国〈きしゅうのくに〉の太守に配されています。尾張・紀伊・水戸これが「徳川御三家」です。
光圀は、学問の面においては父よりも義直を慕〈した〉い、いろいろと教えを受けました。光圀は、少年時代は多少ぐれていて、不良行為が多々あったと言われます。それだけに“人間道"にはかなり若い時から明るかったといわれます。義直は大変に気が短く、訪ねて来た客が順番を待っている時にも、奥の方で大きな怒鳴り声が聞こえます。順番が来て義直に対面した光圀はこのことをズケズケと諌〈いさ〉めました。
「伯父上の大きな声が、玄関口まで聞こえましたよ」と告げると、さすがに義直は、「そうか、それはしくじったな」と素直に反省します。そして光圀に、「どうしたらわしの短気はなおるだろうか」と尋ねます。光圀は、「お腹立ちの折は、一つ、二つと数をお唱えになるか、あるいは能の一節をお唸〈うな〉りになればよろしゅうございましょう」と、短気の鎮静術を教えます。義直は年少の甥〈おい〉から教えられ、「おまえはなかなか知恵者だな」と言いながら苦笑します。以後、義直は腹が立つと必ず能を唸りました。控室で待っている連中も、「尾張様は、今日も能をお唸りになっていらっしゃる。できたお方だ」と感心します。そこにいた光圀は思わず苦笑しました。義直と光圀は、漢学を重んずるという点で志を共有しました。義直は後に、自分の知っている明からの亡命学者朱舜水〈しゅ・しゅんすい〉を紹介します。光圀は朱舜水を水戸に招き、自分並びに家臣たちの学問の師として朱舜水を敬愛します。光圀は後に、「大日本史」という膨大な歴史書を編纂しますが、その顧問として朱舜水の教えも受けました。
義直の、外来文化の尊重は藩民の生活にも及びます。現在、義直が招いた明国の文化に関わりのあるものが、たくさん残っています。たとえば外郎〈ういろう〉や、お祭りの時の山車〈だし〉に据えられる操り人形などはその例でしょう。
「漢学を学ぶには原文に接しなければだめだ」という義直は、言語もその方針を重んじました。会話などで使われる彼の国の言葉も、実際に学んだようです。
ついでにいえば、平洲先生はこの「漢語による会話」の達人でした。長崎で、彼の国の人について本場の言語を学びました。和訳された物よりも、原書を読んで、「書いた人の思想や精神」を、直接学ぶ態度を貫いたのです。これは歴史のもし(if)ですが、義直が生きていた時代に平洲先生も生まれ、義直に接触する機会があったら、二人の談話は大いに弾〈はず〉んだことでしょう。武術も重んじる義直は、当時の剣豪であった宮本武蔵や柳生石舟斉〈やぎゅうせきしゅうさい〉など剣客を招いて、御前〈ごぜん〉試合などを行なわせています。
「尾張様は、勇武好きだ」という名はいよいよ高まります。しかしその陰で義直はコツコツと、自分が本当に好む学問の道を歩み続けていたのです。その義直を支えていたのが、黄門漫遊記〈こうもんまんゆうき〉で名高い水戸光圀であったというのは面白い人間の縁〈えにし〉だといえましょう。

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