平洲塾140 尾張藩での貢献(2)

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ページ番号1004560  更新日 2023年2月20日

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文と武の仕訳に苦しむ義直

尾張藩初代の徳川義直〈よしなお〉は、「神道や儒教に熱心で、またその知識も深い人物」と言われています。ですから、本来の義直はどちらからといえば研究肌で、学者的性格を深めていました。が、前回にも書いたように城中の武士たちの気風が、「尚武〈しょうぶ〉の精神を重んずる」という傾向が強かったので、これに逆らうことはできません。勢い、義直の藩主としての施政方針も、“尚武の道"を重んずる傾向が深まりました。ですから、義直と尾張徳川家の性格として、「勇武を重んじた藩」と見られています。したがって、明倫堂〈めいりんどう〉という藩校もかなり以前に設置されたのですが、平洲先生が招かれた頃は藩祖義直の方針をそのまま守り抜いて、「尾張徳川家では尚武を重んずる」という主流派によって、明倫堂も名ばかりのものとなっていたのです。これが、尾張徳川家の伝統になっていました。宗睦〈むねむつ〉はそれを憂〈いれ〉えて、「もっと、文の道を盛んにしなければならない」と考え、出羽国〈でわのくに〉米沢で実績を上げた平洲先生に、「わが藩の文の道をもっと盛んにしていただきたい」と依頼したのです。
義直が清洲城主になったのは、慶長12(1607)年閏4月26日のことでしたが、かれはこの地にかなり不便性を感じました。もっと尾張の国の中央に出るべきだと考え、このことを父の家康に話しました。家康はすぐ賛成しました。そして、「大名たちに命じて、おまえの新しい居城を名古屋に造ろう」と頷きました。名古屋城の築城がはじまりました。“天下普請〈てんかぶしん〉"と言われます。全国の大名の総力を動員して、アゴアシ自分持ち(大名の負担)によって工事を進めるからです。加藤清正以下豊臣家の大名が積極的に参加協力しました。今でも名古屋城の石垣には、それぞれの大名の名が刻まれているところがたくさんあります。家康の“天下普請"は、徳川家の威令によって行なわれたからです。元和2年に、名古屋城が完成しました。城に入った時義直は17歳でした。藩風が“尚武"だからといって、義直は完全に武勇一辺倒であったわけではありません。文の地も重んじました。特に漢学については、当時の大名が真似のできないほど奥深い勉学を続けていました。義直は、「漢学を学ぶには、原文を読まなければだめだ」と考え、長崎から亡命していた明〈みん〉の学者を招きました。

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