平洲塾131 生きることは 「誰かさん」につくすこと 金貸し商人に教えられる(4)

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ページ番号1004569  更新日 2023年2月20日

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心の壁の壊〈こわ〉しかた

平洲先生は、江戸にいたときもあちこちの大名家の指導に当たって、随分そういう人物に出会いました。しかしだからといって平洲先生はそういう人物をすぐ、「人間がまだでてきていない。もっと修行すべきだ」とは考えませんでした。

「それが当たり前の感情なのだ」と思うからです。しかし平洲先生は、「問題は、そのあとだ」と思うのです。あとだと思うのは、「そういう悪しき感情をどのように自分で処理するか」ということです。その処理がすなわち「自己改革」と言われるものであり、鷹山の言った、「心の壁を壊〈こわ〉すこと」なのです。ですから、今テーマにしている“大衆から公衆へ"ということは、ある面において、「古い自分の考えを壊すこと」であり、そして「そのかわりに、新しい人のためになる壁をつくりだすこと」でもあるのです。

平洲先生が、両国橋のたもとで庶民たちに講義を続けたのは、「古い壁を壊し、新しい人のためになる壁をつくること」でした。そして、その“新しい壁のつくり手"に、誰もがなってほしいという考えでした。平洲先生は、確かにいくつかの大名家の改革を指導しましたが、その指導理念は決してその大名家だけに限られたものではありません。平洲先生の考えは、「誰かさんのために」という目的でした。誰かさんというのは、特定の人ではなく、この世で生きる人間全部に対してだと思います。しかし、平洲先生はそう思っても人間すべてにかかわりを持つことはできません。そこで、「自分が今いる場所で、身近に接することができる人々」を、当面の対象にしたのです。佐藤から聞いた竹俣家老の話は、平洲先生にとって大きな参考になりました。そしてそれは、(竹俣殿と同じような立場に立ったときに、自分にそういうことができるだろうか)と思ったからです。竹俣の自己改革は、「自分の家老としての面目」を叩き壊すことでした。これは大変な勇気が要ることです。場合によっては、そのことにこだわる人間であれば、腹を切ってしまうかもしれません。それほど「家老の面目・武士の面目」というものは、そういう高い地位にある武士の一番大切にしなければならないものだったからです。それを竹俣家老は、一瞬の間に振り切りました。自分で叩き壊しました。おそらく、竹俣家老が自己改革をして、身分の低い担当役人を本間光丘のところへ派遣したとしても、それを、「立派なことだ」と思う人間はいないでしょう。

竹俣の自己改革

大名家というのは、古いしきたりによって成立しています。大名家が守るべきことは、竹俣が捨てた「武士の面目」によって成立しています。竹俣はそれを見事に捨てました。動機は、「若い殿様のためには自分の面目などはちりのようなものだ」と考えたからです。この考えはおそらく江戸にいたときに、平洲先生に真摯〈しんし〉な教えを請うていた上杉治憲〈はるのり〉(鷹山)のために、「自分を殺してでも、治憲公の改革を成功させなければならない」という、家老としての職務感があったからです。この段階で、竹俣家老は完全に私欲を捨てて、公益に尽くそうという人物に変わりました。これも一つの、「大衆から公衆への上昇」であると言っていいでしょう。本間光丘は、米沢藩上杉家に融資しただけではありません。本間家は山形県酒田市に拠点を置く商人ですが、隣は鶴岡市です。ここに庄内藩酒井家が城を築いていました。しかし、江戸時代の大名の例で酒井家もいつも財政難でした。あるとき当主が、本間光丘に頼みました。

「正規の役人になって、我が藩の財政を再建してもらいたい」

こんなことをすれば、当然藩内の武士たちから反対の声が上がります。

「金を借りるだけならともかく、商人を正式な藩士にして、財政再建の指導をさせるのか」という、これもまた、「武士は食わねど高楊枝〈たかようじ〉」からきた、竹俣が最初に発した“武士の面目をどうしてくれる"ということになるからです。しかしこのときの藩主は断行しました。光丘は、お尻がむずむずするほど居心地の悪さを感じながらも、庄内藩の役人になりました。そして、勇気を奮って改革を成功させます。

この地方には有名な俗謡があります。

「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」という歌です。歌詞をよく考えてみるとおや? と思います。それは、歌詞の意味をそのまま受けとめると、「本間様にはなかなかなれないが、殿様にはなれる」という意味にも受け取れるからです。それほど本間家の財力というか勢威〈せいい〉が強かったということでしょう。

現在も本間家は健在です。子孫が美術館や記念館をつくって、多くの市民の訪れを歓迎しています。大名だった酒井家のほうでも、城の跡を市民用の資料館や公共施設として開放しています。

酒田市と鶴岡市はこういう関係にあって、いわば共存の関係にあります。

実を言うと、ぼくも、酒井・本間の両家とは親しい間柄です。本間家とは、かつて本間光丘のことを一冊の本にしました。その縁で、折に触れ記念館を訪ねたり、美術館の絵を見せてもらったりしています。女性の御当主とは特に縁が深く、あるとき残された本間邸に飾られた歴史資料を見ていると、女御当主が、「これをごらんください」と言って、一枚の書状を見せてくれたことがあります。びっくりしました。それは、上杉鷹山の本間家に対する礼状だったからです。

おそらく、竹俣家老が最初訪ねていって、「金を貸してほしい」ということが、その後経理に明るい武士が見事にその金融を成功させたときの礼状でしょう。

これは上杉家にとっても、あまり公にされないほうがいい資料かもしれません。でもぼくははっきり見た記憶があります。本間家でも、ずっと大事にして保存してきたものです。

また、酒井家のほうでは維新のときに、西郷隆盛に非常に世話になりました。西郷の努力によって、東北戦争の一方の指導者であった酒井家が、本当なら減俸・配置がえなどになるはずのものが、「賠償金70万円」ということでおさまったのです。酒井家の当主が全財産を投げ出しました。これに感動した鶴岡の住民が、心を合わせて醵金〈きょきん〉をしました。たちまち30万円のお金が集まりました。これを見ていた西郷のほうが胸を熱くして、「皆さん、もうよか」と言って、30万円で打ち切りにしました。しかしこのとき西郷は、「鶴岡藩の武士たちは、刀を捨ててこれからは農業に従事してほしい」と言いました。松ヶ岡というところに、酒井家の当主が先頭に立って開発団地をつくりました。この開発団地は今も引き継がれ、法人化されています。そして、開発団地内には西郷隆盛を祭った神社があります。もっと言えば、このときの西郷の扱いに感動した旧庄内藩士たちが、十数人下野して鹿児島の一角で農業をおこなっていた西郷を訪ねました。そしてその小屋に同居し、西郷が毎日犬を連れて歩きながらつぶやく言葉をメモしました。それが、『西郷南洲遺訓』(岩波文庫)です。この庄内藩士たちは、西郷が西南戦争を起こしたときに参加し、全員見事に戦死しました。現在西郷の墓は、城山の跡に大きく建てられていますが、その前面の一段低いところに、十数人の庄内藩士の墓がずらりと並んでいます。まるで、死後も、「西郷先生をお守りしよう」という気構えがありありと浮かんでいます。西郷と庄内藩とのかかわりは、維新の一つの美談だと思います。

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