平洲塾135 やむにやまれぬ市民交流(1)
興譲〈こうじょう〉の到達点はユートピア
細井平洲先生が、米沢藩主上杉鷹山の要請によって藩校「興譲館」を再建したのはよく知られています。校名は平洲先生がつけました。「興譲」というのは、「譲〈ゆず〉るという徳を興〈おこ〉す」という意味だと思います。そしてこの譲るというのは、単に余ったものを他人に与えるというのではなく、もっと心の底に相手のことを考えて、「差し出す」という、積極的なヒューマニズムが含まれていると思います。これは幕末の農民思想家二宮金次郎(尊徳)が「報徳仕法」として、独特な復興方法を考え出したのも同じです。荒れ果てた農村を復興するために金次郎が考え出した「報徳仕法」は、「分度〈ぶんど〉・勤労・推譲〈すいじょう〉」の三項目によって成り立っています。分度というのは、「入〈いる〉を量〈はか〉って出〈いず〉るを制する」ということで、「収入に応じて支出を考える」という予算の原則です。勤労というのは、「一所懸命働く」ということですが、これが精一杯努力すれば、場合によっては、「分度として設定した収入分を越える場合がある」ということになるでしょう。つまり、「可処分所得」が出るということです。これを金次郎は、「まず自分のために差出し、次に周りの人々のために差出す、さらに地域に差出す」という段階的な“譲る"方法を提起しています。推譲を項目に設定したというのは、金次郎は、「分度に設定した収入を越えるような働きぶりを発揮してほしい」という考えがあったのでしょう。自分のために使うというのは、おそらく今でいう、「設備投資や先行投資を惜しまない」という、いわば“積極的経営"を行なってほしいということでしょう。こういう考えで努力した人から、推譲された人はきっと、「こんな有難いことはない、必ず御恩を返そう」と思うでしょう。この「御恩を返そう」という気持ちによって、お礼をする事が「報徳」なのです。つまり、「推譲してくれた人の徳に対するお礼」という意味です。これによって、人々の間にお互いに「徳を尊重する心の交流」が行なわれ、それが広まって行けば社会全体が和らかで温かい溶け合いを生ずるだろうということです。金次郎はこの現象を、「一円融和〈いちえんゆうわ〉」と唱えました。一円融和の社会はそのままユートピアです。人間が、すべてホトケの心になってつき合う和の世界です。金次郎はそれを望みました。
「興譲館」における教育も、平洲先生はそういう社会を目指していたと思います。ですからこの「興譲館」で学ぶ者は、藩の武士の子弟だけではありませんでした。一般の農民・漁民・労務者・商人などの子弟だけでなく、親そのものも学んでいます。鷹山の意図を体した平洲先生は、「米沢全ての藩民がホトケの心を持って、互いに積極的な譲り合いをするような地域になってほしい」という願いがあったからです。
いまもある棒杭の商い
現在、米沢の町に行くと、ところどころに「棒杭〈ぼっくい〉の商い」と書いた札が立てられている販売所があります。無人です。これは、「人間(商人)の代わりに棒杭がお相手を致します」という意味です。この商売方法には大きな意味があります。それは、「たとえ無人の販売店でも、買う人は決して品物を無料で持ち去ったり、あるいは定価以下のお金を置いて行かない。必ず示された定価に見合う代金を払って、品物を買って行く」ということです。
かつてぼくはこの現象を美しいことだと思いながらも、米沢の限られた地域における現象だと思ってきました。が、最近は少し考えを変えています。それは、「棒杭の商いは、他国から来た人も含めた市民交流によって出現した美談ではないか」と思いはじめたことです。それは、今まで書いて来た酒田の本間家の行ないよる影響もあるでしょう。また、東北地方には近江商人が沢山来ています。近江商人の商業理念は、「三方〈さんぽう〉よし」です。三方よしというのは、自分よし・相手よし・世間よしということです。自分よしというのは、売りに行った行商人が公正な利益を得るということです。相手よしというのは、お客さんもそれなりの利益を得るということです。世間よしというのは、商人とお客の双方が利益を得れば、世の中が正直でぼったくりの無い商売が行われるような状況になって行く、ということです。人間のだれもが求めている、「ユートピア(桃源郷)」の実現の足がかりとして、まず商業行為からこういう現象を生んでみようという試みです。
その意味では、米沢藩領には、いろいろな美事が次々と入ってきました。平洲先生は、そういう現象を凝視しながら、「それぞれを活用して、この米沢でも一つの美談を生んでみよう」と考えたのに違いありません。つまり、「美談をこの地域のC・I(コミュニティアイデンティティ)にしよう」という企てです。平洲先生が先に立って、「こういうことをやりなさい」と指示したわけではありません。平洲先生はそんなことはしません。
「わたしは学者だ。だからこうあるべきだという考えは示す。それを活用するか、捨て去るかは学んで者の自由だ」という考えを持っていました。平洲先生は実学者ですから、「学んだこと(知)は、必ず実行する(行)」という「知行合一」の考えはもちろん持っています。しかし、「行なうか行なわないかは、その人間の自由意思による」という考えは捨てませんでした。決して強制はしません。しかし、米沢の住民や外から来る人々は、実行しました。それが、「棒杭の商い」です。
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