平洲塾127「大衆から公衆へ(2)」
大衆から公衆へ(2)
自分らしさをつくりだす
先回紹介したように、ぼくが生涯学習における、"趣味的な科目"に対し、考えを改めたのは、相手の立場に立ってものを考え自分が果たすべき役割をお考えになった平洲先生の行動から、「日本にも江戸時代にすでにポピュリズムが存在した」ということにきづいたことが動機になっています。どういうことかといえば、「趣味的な科目を連携させることによって、一つの連帯意識すなわち公衆意識が湧かないだろうか」ということです。
昔は、街にある銭湯のことを「公衆浴場」と言いました。また街角に立っている電話も「公衆電話」と言いました。大衆浴場とか、大衆電話という呼び方はありません。すべて「公衆」です。誰がつけたのかわかりませんが、こういうことを考えた人は恐らく、「こういう公共施設を使う人は、必ず公衆意識を持ってもらいたい」という願いが込められていたはずです。その公衆とは、「自分のことだけではなく、他人のことも考え、社会のことも考え、広い立場で自分の素養を磨いて、自分なりの意見形成能力を持っている存在」と考えていたはずです。両国橋のたもとに立って、優しい言葉でこの国で起こっている美談を主として平洲先生が語ったのも、「長屋の八っつぁん熊さんよ、自分のことだけでなく時には他人のことも考え、世の中全体をよくするように努力しようじゃないか」という、その「世の中をよくするための努力」をするきっかけを、自分でつくってほしいと願ったからではないでしょうか。努力するきっかけというのは、「そういう行動を起こすモチベーション(動機づけ)」の培養のことです。なにをどうするというように具体的に平洲先生は例を示したわけではありません。そういう教育方法を平洲先生はとりません。
「なにを選ぶかも、自分で考えてほしい」と、あくまでも本人の自主性を尊重するからです。ぼくはこの「自主性を尊重する」ということが、実をいえば「大衆が公衆に変わる」一番大きな目標でないかと思っています。いろんな問題に関心を持つのもそれを自分と結びつけて考えるからでしょう。自分と結びつけて考えるのには、やはり本人に、「自分ってなんだろう」と思う、いわば"自主性の培養"の気持ちがなければなりません。平洲先生が両国橋のたもとに立って、いろいろな話をしたのも、「皆さんのお一人お一人が、自分ってなんだろうと考えていただくためにこういう話をしているのです」と、言葉に出さなくてもそういう呼びかけがあったのではないでしょうか。これは平洲先生の塾の運営にも同じことです。塾に通ってくる門人たちに対しても、「自分で自分らしさをつくり出してください」という意図があったと思います。
平洲先生が見つづけていたもの
平洲先生は、享保〈きょうほう〉13(1728)年に生まれ、享和〈きょうわ〉元(1801)年の夏に亡くなりました。74年(数え年)の生涯でした。この間、先生が経験した年号は、享保の次に元文〈げんぶん〉・寛保〈かんぽう〉・延享〈えんきょう〉・寛延〈かんえん〉・宝暦〈ほうれき〉・明和〈めいわ〉・安永〈あんえい〉・天明〈てんめい〉・寛政〈かんせい〉・享和とかなりおびただしい年号に接しています。
江戸時代は、経済的には景気のいいころと、景気の悪い時期があり、景気の悪いときには必ず財政改革がおこなわれました。景気のよかったのは、元禄〈げんろく〉時代、明和・安永時代、それに文化文政(略して化政時代)時代だと言われます。そして景気の悪かったのが享保・寛政・天保の三時代です。景気の悪いときには必ず大規模な「財政改革」がおこなわれました。しかし当時の制度として、徳川幕府の財政と各大名家(藩)の財政とは、まったく切り離されていました。前に、ある地方自治体の長が、「今の都道府県制度を廃止して、江戸時代の藩制度に戻したほうが地方自治体はよほど自治力を持っていた」という主張がありました。これはある面で言い得ています。というのは、江戸時代の大名家はすべて、「十割自治」だったからです。つまりどういう政策をおこなうかということはその大名家の実勢を重んじたものであり、ただし、「どんな仕事をおこなってもよいが、その仕事に必要な経費は自分で調達せよ」と言われていました。この「財源の自己調達」が、すなわち「十割自治」になるのです。ですから、その大名家が地方自治体として大きな赤字を生じたとしても、幕府は一文〈いちもん〉の現在で言う地方交付税や補助金は出しません。
「自分のところの始末は、自分でつけろ」という突き放した態度をとるのです。極端に言って、「中央政府である徳川幕府の財政と、地方自治体である大名家の財政とはまったく切り離されていた」ということです。ですから、時に奇妙な現象が起こります。それは、「中央政府である幕府が経済成長の波に乗って、大変裕福であっても、地方自治体である各大名家は赤字で苦しんでいた」という状況が生ずるのです。
平洲先生がいろいろ指導をした米沢藩の藩主上杉治憲〈はるのり〉(鷹山)が、藩政改革を開始したのは明和4(1767)年のことです。徳川幕府が設立されたのは、慶長8(1603)のことですから、すでに164年たっています。このころは、徳川幕府も大名家もそれぞれ、「財政問題」が、行政の大きな柱として無視するわけにはいきませんでした。それも景気がよければいいのですが、ほとんど大名家は軒並み赤字に苦しんでいました。鷹山の治める米沢藩にしても、「藩収入のうち、人件費が80パーセント以上占める」という異常な状態です。一般の行政費に回せるお金はほとんどありません。残りの予算はほとんど、「商人から借りた金への利子支払い」で消えてしまいます。いや、その利子支払いも到底間に合いませんでした。そのために多くの商人が、「この大名家には金を貸しても到底取り返すことはできない」と見限ってしまいました。言ってみれば、メーンバンクに見捨てられたということです。こういう状況ですから、平洲先生は江戸で生活する上で、享保の改革と、寛政の改革という、「中央政府の財政改革」に遭遇しています。しかし一方では、明和・安永・天明に及ぶ"景気のいい時代"も味わっています。こういうように、「景気の消長」によって、くるくる変わる「人の心の変化」もありありと、平洲先生は、見つめていました。
(つづく)
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