平洲塾137 商人は情報の伝え手 棒杭の商いは市民交流の極点(1)

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ページ番号1004563  更新日 2023年2月20日

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考えてみれば米沢藩内で起こった“棒杭の商い"という美談は、いろいろな意味を持っています。それは、“棒杭の商い"が行なわれたのは米沢藩の領内でしたが、それをはじめたのは必ずしも米沢藩の商人だけではなかったからです。
大袈裟〈おおげさ〉に言えば、これは近江商人から発生した、“三方よし(自分よし・相手よし・世間よし)"に基づくものだと思います。

  • 「自分よし」というのは、モノを売る商人も公正な利益が得られる。
  • 「相手よし」というのは客も適正な価格でよい品物を得られる。

ということ。
「世間よし」というのは、商人と客とがそういう信頼関係を築くなら、社会全体に信頼の念が行き渡り、ウソをついたりぼったくりをしたりするような商行為がこの世から消えます。信頼が取って代わります。人間にとって、人を信じられるということほど嬉しいことはありません。
それが定着するのですから、そういう社会はいつも信頼が世の中に定着し、疑ったりウソをついたりごまかしたりあるいは憎んだり、争ったりするような辛いことがなくなります。ユートピアです。そういう世の中を目指して正しい人々が毎日努力しているのです。
“棒杭の商い"には、おそらく西の方からやって来た行商人も関わりを持っています。
江戸時代は、住民の行動にかなり制約が加えられました。特に農民は、領主である大名が移動で他地へ出て行っても、一緒について行くことはできません。新しい領主のために、年貢の基になる米などの農作物を作らなければならないからです。上がどのように代わろうと、農民は固定された存在でした。その領主が在任中は、仕える城の武士も同じです。
そういう規制の多かった社会において、商人だけは自由でした。
藩というのは、もともとは囲とか塀を言います。したがって、日本には270人近くの大名がいましたから、藩もそれだけの数がありました。270の塀〈へい〉や垣根がびっしりと日本国内に設けられ、いわば“タテ社会"を構成していたのです。
そのタテ社会を破り、ヨコ社会を作り出したのが商人です。
商人は流動性を持っています。そしてこの流動性を利用して、情報の交換をします。ですから米沢藩の中でも、商人同士はいろいろな情報を交し合いました。米沢の商人たちは、西(特に都に近いところに位置する近江商人)などから、言うところの“中央情報"を教えられます。そして西から来た商人たちは、米沢の商人から東北情報をもたらされます。お互いに、情報の交換によって、なるほどと頷いたり、あるいはヒントを得たり、あるいは「自分たちが信じていたことの真相はそうだったのか」と、自分の持っていた情報が誤報であったことを知ったりしていたのです。

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