平洲塾134 藤樹スピリットで生きる福井俊一元町長(3) いまも生きている藤樹スピリット

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ページ番号1004566  更新日 2023年2月20日

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藤樹も蕃山も本人は使わない

ぼくは「藤樹」とか「蕃山」という呼び方を使っていますが、中江藤樹も熊沢蕃山も実際には藤樹だとか蕃山とかという号を使ってはいません。藤樹の場合は、藤樹書院の庭に大きな藤の樹があって季節が来ると枝を広げ美しい花を咲かせたので、門人たちがその藤の樹を眺めて、「わたしたちの先生は藤樹先生だ」と呼んだことがきっかけです。藤樹自身は「わたしは藤樹だ」と号を名乗ったことは一度もありません。蕃山も同じです。蕃山は藤樹の教えを受けた後岡山に帰ってその精神に基づいて政治や行政を行ないます。しかし藤樹の学問は当時、「日本で最初の陽明学(王陽明の学説)だ」といわれました。陽明学は徳川幕府が国学的扱いをしている朱子学と相対立する学問です。理論よりも行動を重んずるので、徳川幕府で朱子学を扱う学者たちは、「陽明学をあまり普及すると、最後には徳川幕府に背くような連中を養いかねません」と告げました。幕府首脳部はこれを本気にして、幕末近くには陽明学を禁じてしまいます。いわゆる“異学の禁"です。しかしそういう禁止にも拘わらず、「学問に、境目はない」と信じ、朱子学や陽明学のいいところを取り上げて、混合する教え方をしたのが、平洲先生を核とする自治体のグループ“嚶鳴協議会"の強力な参加者である、岐阜県恵那市岩村町出身の佐藤一斎先生です。一斎先生の門下には、大塩平八郎や西郷隆盛がいます。一斎先生は、自分の年齢が加わるにしたがってその年齢に応じた考え方を組み立て、それを「語録」として残しました。年齢に応じた時の著述をそれぞれ「言志録」としました。四つあります。そのため「言志四録」と呼ばれます。全部で千百三十三語あります。西郷はその中から百余り選んで、自分なりの「言志録」を作りました。しかしこれはあくまでも一斎先生の語録を整理したもので、西郷自身の著述ではありません。西郷は自ら本を一冊も書きませんでしたが、現在残っているのに「南洲遺訓」というのがあります。これも西郷自身が書いたものではなく、西郷が日頃口にする言葉や行ないを庄内(山形県鶴岡)藩士たちが耳にしたことをメモして書き残したものです。このことは、また何れ書く機会があるでしょう。

閑話ではないエピソード

もう一人の蕃山についても、蕃山というのはかれが池田光政から貰っていた領地の村の名です。蕃山村(しげやま村)と言いました。実をいえば、藤樹から教えられ陽明学による人々の生き方は、幕府や大名の中でも気にする人が沢山いました。そこで池田光政に、「おたくの家臣の熊沢が行っている行政のやり方は、幕府の考えに反すると思うのでお止めになった方がよろしかろう」と忠告する者もいました。池田光政は名君で、若い頃はそんな言葉は気にしなかったのですが、この頃はやはり、「幕府や周りの大名たちとの折り合い」を考えるようになっていましたので、蕃山に注意しました。しかし蕃山は聞きません。そのため光政は次第に蕃山を遠ざけるようになります。蕃山は辞任して、領地に帰りました。領地が前に書いた蕃山村〈しげやまむら〉です。地域住民は蕃山の教えの正しさを信じ、その言葉に従いました。そして蕃山を、「蕃山村の先生」と呼ぶようになりました。これが縮まって「蕃山先生」となり、いつの間にか蕃山の号になってしまったのです。ですから、ぼくもしきりに藤樹とか蕃山とか書きましたが、これはその号の方が世の中に行き渡っているのでそれに従ったまでです。本当は、藤樹も蕃山も自分ではそういう号を使いませんでした。これは中江藤樹と熊沢蕃山という人物を正しく認識する上で大切なことなのでしつこく書き加えておきます。
冒頭でご紹介した福井俊一元安曇川町長は、熱心な藤樹の顕彰者でした。毎年のように「藤樹フォーラム」という催しを行ない、多くの人々に中江藤樹の実態を知らせました。ぼくもその度に呼ばれて藤樹の話をしました。町長はすでに、「中江藤樹記念館」を造り、地域外の人々の訪問も大いに歓迎して、藤樹精神を普及していました。BS放送に出て来た福井元町長が何をしていたかと言えば、町長は退任後も町の活性化や発展を願って、新しく、「アドベリー」という果物を作り出していたのです。ただ、この地域風向によって湿気が多いので、それをどう防ぐか、という点に福井さんは苦労したようです。しかし苦心の成果があって、ついにアドベリーを作る場所の風向をよい方向に変えることができました。柿にならせたアドベリーを収穫しながら、福井さんは嬉しそうに、「苦労の甲斐がありました」と語っておられました。その姿は昔とちっとも変らずに、熱心に中江藤樹の顕彰を行なっていた頃を、ぼくもありありと思い出しました。そして、「藤樹スピリットは今も生きている。福井元町長も一貫して今もそれを伝えている」という感を持ち、力強くまた頼もしく、さらに懐かしく嬉しく感じたのです。
これがぼくの今回の「閑話」です。お読みになっていただいた方も決して今回の話が「閑話(無駄話)」ではなかったことを感じていただけたと思います。平洲先生の、“人間愛"に通ずる、エピソードなのです。それが、タイムトンネルを潜って江戸初期の藤樹先生の話だけでなく、福井元安曇川町長によって、「今も生きる藤樹スピリット」として、“人間愛"の一助を為すエピソードになっていることをお伝えしたかったのです。

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